あさかの歴史

 いまから約3万年前、人類が生活していた旧石器時代の名残りとして、泉水山・富士谷遺跡があります。
またここではずっと下って約4千年前の縄文時代に居住していた集落の跡が発掘されています。
 さらに時は過ぎ、古墳時代、紀元530年ごろ、この地の豪族がつくった前方後園型の古墳が残されています。
根岸台の柊塚(ひいらぎづか)古墳は、貴重な遺跡として先日県指定文化財に登録されました。
 近世に入って平安時代、930年ころには大規模な村がつくられ、向山遺跡が残されていますが、
下って江戸時代には、膝折、溝沼、浜崎、田島、宮戸、内間木の村々の山林は尾張徳川家、台、根岸、岡の村々は
徳川将軍家が指定する鷹狩り区域、「鷹場」に指定されました。
今開発計画のため、山林伐採がはじまった「ハケの山」は最後に残された雑木林で、かつての「鷹場」の一部です。
川越にあって江戸城の北方を防備していた大名と江戸との交通のために川越街道が整備され、
膝折地区は街道の有力な宿場として繁栄しました。
大名が休憩した高麗家の脇本陣はほぼそのまま残されており、膝折は歴史地区として現在も良き時代のおもむきを
残しています。

1655年には野火止用水が掘削され、宮戸河岸が幕府公認の河岸場となりました。
一方黒目川の流れを使う動力として「水車」が利用され、膝折村には全国的な規模をもつ地場産業として伸銅業が繁栄を極めました。
  1914年東上鉄道(現在の東武東上線)が開通、ランプや水車のエネルギーは電力に変わって、
鉄道、工場はもとより家庭も電化され、電話も開通しました。
これだけでは終わらず、朝霞市は大きな変貌を遂げて行きます。東洋最大のゴルフ場がつくられ、
さらに第二次大戦ではそのゴルフ場は陸軍の予科士官学校となり、
陸上の戦闘のための幹部を養成しました。軍人の衣料をまかなう大規模な施設として「被服廠(ひふくしょう)」がつくられ、
敗戦後は米軍がまっさきにこの地に進駐して「キャンプドレイク」を設営しました。
キャンプの周辺には、米軍軍人に向けて多数の遊興施設がつくられ、さらに朝鮮戦争が勃発すると、
従軍した傷病兵のために野戦病院が設置されました。
戦後最大の変革として、連合軍司令部GHQの司令により、農地改革(農地解放)が行われ、地主は土地を失い、
耕作していた農家は安価で田畑を取得し、何百年も続いてきた農村の仕組みは崩壊しました。
但しこの土地改革は農地に限られ、山林には適用されなかったため、山林地主の土地は依然そのままに残されたのです。

 JR武蔵野線「北朝霞駅」の開設、その周辺の土地の高騰、劇的な開発は目を疑うほどです。米軍キャンプの返還、軍施設の撤去、
営団地下鉄有楽町線の乗り入れ、新しい住宅建設は進められ、住環境の変化は現在も活発に続いています。

 この紹介文は、朝霞市教育委員会編集、朝霞市発行朝霞市史普及版「あさかの歴史」平成9年発行を参考にさせて頂きました。



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