朝霞の名を知らしめた伸銅業
朝霞は銅や真鍮などの銅合金を引き伸ばして、板や棒、針金、管に加工する伸銅業を、
関東で最初におこしたところだといわれています。
その歴史は古く、文化年間(1804〜1817)までさかのぼります。
銅は熱伝導率がよく、錆びにくいうえ、柔かく伸びやすいため、古代よりさまざまな製品に加工されてきました。
伸銅業は膝折一帯で盛んに行われていたのですが、
熱した銅の塊を伸ばすために利用したのが、黒目川に設置した水車の力でした。
朝霞独特の地形から、黒目川の流れが適度な落差を持ち、
小さな川ながらも充分な水量を保っていたことから、 水車を回す動力になり得たのでした。
ただ水車の利用は伸銅業者より製粉業者が先で、
「伸銅御三家」と呼ばれる朝霞の代表的な伸銅業者、奥住家、徳生家、大畑家の三家も、
もとは水車による粉引きや麦つきを家業としていたのです。
伸銅業の始まりについては諸説あり、朝霞市博物館の解説によると、
ひとつには、膝折宿で病気で倒れた旅人が介抱してもらったお礼に、針金ひきの技術を伝えていったというもの。
この旅人は関西の伸銅問屋とも針金ひきの職人ともいわれており、この旅人を介抱したのが奥住家とも徳生家ともいわれています。
また一方で、江戸に上った徳生家の者が、江戸の伸銅問屋から伸銅の技術を仕入れ、
自分の水車でできるのではないかと試したのが始まりとのことでした。
このほかにも「始まり」に関する言い伝えはあるのですが、どれもそれを裏付ける明確な文献はないようです。
いずれにせよ伸銅業者が朝霞の産業を支えてきたことには違いありません。
奥住家では天保15年(1844)に炎上した江戸城本丸を再建するために、銅瓦の作成に携わっていたことが記録に残されています。
朝霞では明治時代に入って、電線の素材を作り始めるなど、近代工業に大きく貢献してきました。
大正時代初頭には動力が水車から電気に変わり、さらに生産量を伸ばし、発展したのですが、
大正3年に東上線が池袋から田面澤(現在の川越市)まで開通し、伸銅製品の出荷が便利になったことも、その理由のひとつでした。
朝霞の伸銅業は第2次世界大戦後に訪れた高度経済成長期に支えられ、飛躍的に発展したのですが、
昭和45年頃、銅が自由化され、大手企業が伸銅業に参入したことで、大資本に太刀打ちできなくなり、
伸銅をやめる工場があい次いだといいます。