新座市に移り住んで25年         大石 武

 昭和51年春、私は長年住んでいた札幌から勤め先の関係で新座市に移ってきたが、
今、当時の、例えば志木駅の新座市側がどうであったかと思い出そうとしてみても、恥ずかしながら全くというくらい覚えていない。
 情けないと思う反面、人の記憶力などこんなものかとも思っている。いずれにしても、その頃の建物は何一つ残っていないことは確かである。
ただ、一市民としては、少なくとも駅を中心に立派な建物が軒を並べているのを見ると何か嬉しくなる。

最近、JR新座駅の南側がようやく整備され、バスも乗り入れられる様になった。  ここへ移ってきた25年前、既に「新座」という名の駅があったのに、
最近までほとんどその周辺の整備は進まず、何とかならないものかとヤキモキしていたのでほっとしている。
しばらくすれば、今まで「ただ駅があります」と言った状態にあったことなど誰も思い出さなくなるに違いない。私はそれで良いのだと思っている。

 私の出身地は同じ埼玉だが東武線沿線の利根川に近い小さな町で、水田に囲まれた丘も無いような平坦なところである。
東上線沿線とはほとんど交流が無く、私は新座市という名前すら聞いたことが無かった。
  ここに居を構えるようになったのは、東上線沿線にあり、新しい勤務先に通うのに便利なところという条件で探した所、
たまたま新座市に適当な土地が見つかったからである。
売り出された場所には「鐘の鳴る丘」というたて看板が立っていた。故郷に似て平地なのに「丘」とはどういうことかといぶかったが、移り住んでみて、
鐘は近くの立教高校内の礼拝堂の鐘であり、一見平らに見えたその土地も実はゆるく傾斜した広い台地の一角を占めているのだということがわかり、
一応は納得したものである。
以前は、この辺一帯雑木林であったという。今でも水田がほとんど見受けられないのもうなずける。

 江戸時代、野火止用水(市民プレス:発刊準備号第2号参照)が不毛の乾いた土地に住む人々の生活にいかに役立ったか容易に想像できる。
 この様な土地柄、逆に、新座市は自然災害に極めて強い。この25年間、風水害にあった事が無いし、幸い、大地震にも見舞われたことも無い。
当初は黒目川が氾濫したり、志木駅の近くの道路が冠水したりしたことがあったがたちまち整備され、
今や遠い記憶の中にぼんやりと残っているにすぎない。
 誰しも、風光明媚(ふうこうめいび)な所に住みたいと思うのが常だが、そういう所はやはり災害も起こりやすい。
何も無い新座市、これが実際に暮らすうえで実は大きな取り柄になっている。
 何処に住んでいますかと聞かれ「新座市」と答えると、あー、あの平林寺のあるところですね、と良く言われる。
この辺一帯、みるべき遺構の無い中で平林寺は特別の存在であり、人々はこの名刹を誇りに思っている。
今もうっそうとした雑木林がまわりを取り囲んでおり、その一角には武蔵野の面影が色濃く残されている。
 都市化が進むのは時代の流れであり新座市もその例に漏れず宅地化が進んでいるが、まだまだ農地も少なくない。
平林寺周辺は別格としても、なお、雑木林が所々に散在しているし、5月には、例えば志木街道は新緑にむせかえるようになる。
又、旧川越街道や農家の庭の隅にも見事なけやきの大木がそびえ立ち、自らの存在をあたりに誇示しているのを見かける。まだまだ自然も残っている。

 このように新座市には、ビルが連なっている駅前、乱立しているかに見えるスーパーマーケットと庶民的な地域商店街、
リフォームを終えた家も目立つ古い住宅街と湧き出るように姿をみせた新興住宅街、
そしてわずかながらも残っている雑木林と何だか肩身が狭そうにしている昔ながらの農地とがあまり違和感無く混在している。
私は、この新座市の、どこかわい雑で親しみやすく、そして住みやすいところが好きだ。私の住む所は人境にありながら都会のけん騒はない。

 冬の夕方、隣家の屋根越しに赤く焼けた空が見える。初夏、借景となっている近くの雑木林の新緑を小鳥が微かに揺らしている。

 このありふれた中に安らぎがある。

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