新座、志木 ゆかりの偉人
「電力の鬼」と呼ばれた
松永安左エ門

 伝統文化を体験学習する施設として、十一月、新座市は天然記念物「平林寺境内林」内に「睡足軒の森」をオープンした。
この庭園をかつて所有していた人物が故・松永安左エ門氏である。
松永氏は新座市中野に隣接する所沢市坂之下にも広大な「柳瀬山荘」を構え、また志木市内に「東邦産業研究所」を設立した人物でもある。
 新座、志木にゆかりのある松永氏の足跡を追ってみよう。

松永安左エ衛門氏の横顔

 松永安左エ門氏はわが国の電力の開拓者で、氏の故郷長崎県壱岐郡石田町にある「松永記念館」のパンフレットには、『明治・大正・昭和の三代にわたり、日本の電力の普及と復興に努め、我が国の産業経済発展の基礎を築いた先覚者』で、「電力王」、「電力の鬼」とも称せられたと記されている。
 松永氏は一八七五(明治八)年、長崎県の壱岐に生まれた。慶應義塾に入学し、福沢諭吉の娘婿である福沢桃介と親交を深め、経済論を交わすようになるも中退。日本銀行に勤めた後、二六歳で福沢桃介とともに福松商店を創立し、石炭商として活躍する。一九〇九(明治四二)年、三四歳で福博電気軌道株式会社を設立してからは、電力、ガス事業を次々と興し、一九一四(大正三)年、四〇歳で九州電気協会を設立、会長となるなど、起業家として油ののった生活を送る。四二歳で博多商工会議所会頭、福岡県選出代議士に当選、一九二二(大正十一)年には東邦電力を設立した。一九三二(昭和七)年、五七歳で松永翁の支配する資本は十四億円に及び、名実ともに日本の電力王となった。東邦電力はその後志木に創設された科学技術研究機関、東邦産業研究所の母体である。

柳瀬山荘を造営

 九州から関西を経て関東に進出した松永氏は、おそらく、その頃東武鉄道東上線の敷設を契機として知り合ったと推定される東武グループのトップ、根津嘉一郎氏、志木河岸で回漕業を営み、志木駅の開設に関わった井下田慶十郎氏などの示唆によって、一九二九(昭和四)年、五四歳の折、武蔵野の深い面影を残していた旧「柳瀬村」に広大な土地を求め、多くの資材、人力をもって豪壮な山荘を造営した。本屋と屋敷門は、由緒ある建物を移築した。
 国家が電力を管理する体制ができたことで、松永氏はいったんは電力界から手をひき、山荘に隠居した。
 氏は趣味人で、六〇歳になって目覚めた茶道にのめり込み、隠居後は茶道三昧の生活を送ったという。論語の「六十にして耳に順う、七十にして炬を越えず」から、自ら「耳庵」と名乗った。柳瀬山荘には、政府、財界の要人、文化人が招かれ、茶会は社交の場でもあった。財力によって貴重な美術工芸品を収集した。氏は大蔵大臣などに推されるが、公職を一切断り、電力国家管理に反対するも電力は国家管理となって、一九四一(昭和十六)年二次世界大戦が勃発するや、柳瀬山荘にこもり、閑居の生活を送っていた。
 しかし戦後の昭和二四年、七四歳にして電気事業再編成審議会会長に選ばれ、電力事業にカムバック、電力再編成(民営化)を強行、「電力の鬼」と称された。」

東邦産業研究所の設立

 松永安左エ門氏の東邦電力は、一九三七(昭和十二)年、財団法人東邦産業研究所を設立、翌十三年に福岡試験所が完成、引き続き十五年、東京試験所の一期工事が竣工、研究活動が開始された。本研究所の設立の目的は、各種の産業に関する科学的基礎研究を行い、これによって得た成果の実際化に必要な中間試験を行って応用普及を図り、国益の増進に資することとされていた。  
  東京研究所の場所は、志木市駅前の広大な雑木林に建設された。現在の慶應義塾志木高校やダイエーの辺りである。
なぜ松永氏が研究所の場所として志木を選んだかは明らかではない。しかし彼が武蔵野の地を好んでいたことは確かなようだ。
 話は前後するが松永氏が創設した東邦産業研究所は広い敷地を誇り、平行に並んだ研究棟のほか、研究所に勤める研究員が住む社宅が数多く並んでいたという。社宅として今では考えられないような広い庭もあったという。
 この研究所は第二次世界大戦の終戦によって解散するが、研究員たちは、半導体事業で名を成したサンケン電気(旧東邦産研電気)や、シリコニットと呼ばれる発熱体を利用した電気炉の著名メーカー、シリコニット高熱工業を設立し、それぞれ大きな飛躍を遂げて日本の科学技術に多大な貢献を果たしている。

その後は

 戦後この研究所を巡って、松永氏と研究所の職員の間で大きな意見の食い違いを生じ、研究者たちが考えた、農工業を働きながら学ぶ学園創設の夢は、松永氏の強引な意見によって砕かれてしまった。結果として慶応義塾に寄付され、さらにその一部は慶応から志木市に譲渡されてダイエーがオープンすることになったのである。
 松永氏は平林寺の向かい側に「睡足軒」と名付けられた茶室をもっていたが、のちに平林寺に寄贈した。今回新座市が寺側から借用して整備した日本庭園の敷地はおよそ一万平方メートル。敷地に沿って、市が歩道を造る計画もあるようだ。「睡足軒」は木造平屋建てで、飛騨高山から移築したという茅葺きの古民家である。聞くところによると、横浜市の三渓園で知られる実業家、原三渓の世話で移築が実現したという。茶人らしく、鉈削りの柱を使った茶室も造られており、開放後は市民がお茶や生け花の場として、また憩いの空間として利用できるようになるだろう。

柳瀬山荘のその後

 一九四八(昭和二十三)年、松永氏は山荘を多くの美術品とともに国立博物館に寄贈した。その代わりに松永氏は気候が温暖な小田原が気に入り、別邸を造営して暮らし、昭和四六年、ここで九六歳の生涯を閉じた。故郷の壱岐と平林寺に分骨されて葬られた。

小泉首相の心に残る豪傑

 さて、松永氏は常に国家管理や官僚に批判の目を向け、実力で電力事業を開拓した人物である。武蔵野の地を愛し、新座、志木にゆかりの茶人、それが松永安左エ門なのである。
 なお松永安左エ門に関する書籍には『電力会社を九つに割った男・民営化の鬼、松永安左エ門』(淺川博忠・著/講談社文庫)や『爽やかなる熱情、電力王・松永安左エ門の生涯』(水木楊・著/日本経済新聞社)などがある。前者の巻末には小泉総理が「松永安左エ門、福田赳夫、そして私」という題で解説を寄せている。

 この一文を作る際には、多くの方々から資料を戴きました。列挙して感謝の意を表します。
〇壱岐松永記念館 〒811‐5214  長崎市壱岐郡石田町 印通寺浦360  п@09204‐4 ‐6688

〇東京国立博物館 〒110‐8712  東京都台東区    上野公園13‐9  п@ 03‐3822 ‐1111
〇神山健吉氏 志木市郷土史研究会誌「郷土志木」 22号、 25P〜38 P(1993)「慶応義塾農業高校が誕生するまで

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