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川越街道をゆく…大和田宿の今昔 川越と江戸とを結ぶ街道が、中山道の脇往還として整備されたのは、江戸時代、寛永年間(一六二四〜一六四四)のことである。当時は川越道、あるいは川越往還と呼ばれた。川越を発った人馬は、大井宿を経て柳瀬川を渡り、大和田宿にさしかかる。現在の新座市大和田は、川越街道の宿場町として賑わった。 徳川将軍も往来した 江戸の北西に位置していた川越は、幕府の要となり、老中格の大名が藩主として配置されていた。川越街道は江戸日本橋と川越を約十一里で結び、脇往還とはいえ、東海道、中山道、甲州街道などの街道にも負けぬ、幕府にとっては重要な街道であった。家康をはじめ、三代将軍家光も、鷹狩りや参詣のためにこの街道を往来したという記録がある。 土橋であった英橋はいま
池袋に向かって左に分かれ、街道をゆけば大和田宿に着く。江戸時代の後期、今から百九十年位前の文化七年(一八一○)に書かれた「新編武蔵風土記」によれば、当時大和田の宿には一四○軒の家があったという。いま英橋を渡るとき、右に新道が分かれる。かつての街道が自動車の通行には不十分な道幅で、拡幅することが困難であったために戦後つくられたもの、しかもこの橋にさしかかる手前には、これも戦後に自動車による輸送を目的としてつくられた、北浦和から所沢に向かう「浦所線」が交差し、複雑極まりない構造の分岐点となっている。歩く人や自転車に乗って横切る人にとってはため息の出る難儀な地点だ。通行する近隣の住民への配慮がなされたのだろうかと疑いたくなる。しかし一度坂を下り、人道トンネルをくぐると柳瀬川の河川敷が見え、そこに佇むと、前号で紹介した「柳瀬山荘」の樹林も望まれ、流れる水の音は、激しく行き交う自動車の通行を忘れさせてしまう。 明治、大正、昭和の繁栄
大和屋(現在は第一新座幼稚園)の手前には右折する道があり、また左手には「観音堂」があるが、ここを左折する道が通っている。川越街道と鍵の手のように交わるこの道こそ、江戸時代を遡って鎌倉時代、いざ鎌倉へと武士たちが駆けつけるための道、「鎌倉街道」の名残りとされている。この道を行けば、間もなく「普光明寺」の山門が見えてくる。鎌倉街道は、現在の富士見市水子から羽根倉橋を通って荒川を越え、武蔵一の宮、大宮の氷川神社に通じるとともに、一方は国分寺にあった国府に向かう往還道であった。 普光明寺の歴史の重み
鬼鹿毛の物語 ふたたび川越街道にもどると、ほどなく「防衛道路」との交差点となる。その角の「魚久」(しにせの鮮魚商、現在は酒店)が三叉路の正面に位置していた(「大和田史談」の表紙にある大正時代の写真を参照)が、防衛道路の開通によって車の通行の激しい地点となった。ここ過ぎると街道はゆるやかに上り坂となる。 名門・大和田小学校… 斜めに右折するとJR武蔵野線「新座」駅に達するが、直進すると、街道沿いには、手入れの行き届いた庭木や、古い街路樹が散見され、「大和田小学校」が右手に見えてくる。この小学校は多くの名士を輩出している。筆者がほぼ同じ時期を過ごした友人の一人、「内田幸男」さんはこの小学校の卒業生であるが、眼科の権威として日本眼科学会会長、日本女子医大病院長を歴任、惜しくも過年お亡くなりになったが、学問に対してはひたむきな方で、その温厚かつ真摯なお人柄は関係者から厚く尊敬されている。また同時代を過ごした方々の中に、当時は難関であり、若者の憧れでもあった「少年航空兵」、「予科練習生」に進み、基地から大和田の上空を訪問された名士もおられる。 左手に神明社が見え、街道は「野火止」に入ってゆく。 景観は変わる… 大和田はJR新座駅に近く、川越街道の交通網にも包まれているので、古い住民だけではなく、この土地が気に入った新市民の方々も少なくない。新しい大和田はいま、古い家の改築や邸宅新築のラッシュに直面しつつある。町の構造や風景は大きな転換期を迎えている。新座市全体の人口はすでに十五万人を超え、過密さは日に日に増しつつあるが、良き風景と良き伝統は忘れぬようにしたい。 |