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川越街道をゆく …白子宿の賑わい 和光市の「白子」は、川越と江戸とを結ぶ交通の要衝で、江戸時代には宿場として繁栄した。 太田道真・道灌父子によって江戸城と川越城が築かれたのは、長禄元年(一四五七)のことであるが、北方に対しての防備を固めるため、それまで使われていた古道を繋ぎ合わせ、川越街道がつくられた。本紙第七号でも説明したように、川越城主によって街道の整備は進み、参勤交代のほか、多くの人々が商用に利用した。 日本橋を出発して川越に向かう 旅人は中山道から分かれ、二里余りの道のりを経て上板橋村(いまは板橋区)に着き、石神井川を渡り、下練馬村(練馬区)の宿場を経て一里、白子村に入ってゆく。この里程は安永九年(一七八〇)の記録によるもので、江戸から川越まで十里ないし十一里の道のりであった。 江戸時代の街道は「白子橋」を渡る だらだらの新田(しんでん)坂を下ってゆくと、往時の雰囲気がいまも匂う旧家が両側に佇む。造り酒屋もあった。成増と白子の境界は複雑に入り組んでいるが、白子川に架かる「白子橋」を渡ると、街道はいよいよ「白子宿」に入ってゆく。 白子橋のたもとは、かつて行き交う人々で賑わっていた 街道は現在の「白子宿通」に突き当たって左折する。宿の中程右の裏手には、清流がいまも湧き出ている「熊野神社」と「神滝山不動院」がある(写真3)。なおこの路地の右手を進むと東上線の線路の手前の斜面に「地福寺」が構えている(写真4)。 白子坂下はいまは車の洪水に 白子坂下の交差点を成増の方向から見ると 昭和のはじめ、当時の白子宿の繁華街を横断し、立ちはだかっていた斜面を切り通して、一直線に駆け上がる川越街道(県道新座・和光線)が開削された。このとき新築されたお店は少なくないが、風格をもったいくつかの店舗はいまも現役で活躍している(写真5)。 また逆に切り通しから坂下の交差点を通して成増方向を望む(写真6)。 さて県道を横切ったもとの街道は坂を登ってゆく 次第に勾配は急となり、「大坂通」と呼ばれる。上宿本陣は急坂の途中にあったが、集合住宅に建て替えられた。かつては商店が賑わいを見せていたが、いまではその繁栄を偲ぶよすがは無い(写真7)。 街道は「浅久保通」につづく 「笹目通」を越えると、江戸時代の街道は和光市「中央」の「浅久保通」に入って行く。だらだら坂を下ってゆくと、右側に大きな木造建築が見えてくる。かつての「代官屋敷」とその「長屋門」だ(写真8)。 昔の街道に沿って、集合住宅が次々と建ち並んでゆく。街道を行くのはいまや人々では無い。主役は自動車になってしまった。が、ここに住む人々は、かつての景観を是非記憶の隅に留めておいて頂きたいと思う。 本文を書くさい、次の資料を参考にさせて頂いた。 |