大地例賛

サクラあれこれ

日本人はサクラを好む

 戦前のこと、昭和八年(一九三三)に小学校に入学した生徒は、はじめて色刷りの教科書を手にした。
国語」巻の一は、サイタサイタで始まった。
 その前年まで、カラーの教科書は無かった。それまでは「サクラ」という文字とモノクロのサクラの花一輪だった。兄や姉のお下がりを使うことが多かったが、それはできなかった。




「梅」から「櫻」へ

 さくらは春になると私たちの心を弾ませる。桜前線が南から北上する予報を、わくわくしながら聞くのである。

 深く日本人が関わるサクラ。「櫻(桜)」の文字がはじめて使われたのは「日本書紀」においてだった。帝が池に船を浮かべ、酒盃を受けて飲もうとしたとき、ひとひらの桜の花びらが舞い落ちてきた。臣下は山に入り、桜の一枝を取ってきて帝に献上した。

 奈良時代の知識人は、中国から伝来した「梅」を眺めて花の美しさを知ったのだった。それは多くの歌にも詠まれている。一方原生林の伐採によって、大和の丘陵に自生の桜が目立ちはじめた時、桜の花の美しさに気付いたのであろう。このように説く学者もいる。

 奈良時代の王朝の貴族にとって、桜が咲く奈良は心の古里となり、代々の帝はみな桜がお好きで、いまも続いている皇室の観桜会は、嵯峨天皇の弘仁三年(八一二)にはじまるという。仁明天皇は桜を特に好み、紫震殿の梅の木を桜に変えて、右近の橘、左近の桜とした。さらに里桜で飾られた平安時代の京都では、桜はなくてはならない樹であった。

 政治が東に移った徳川時代にも、桜はいくつもの名所の景観をつくった。文政十年(一八二七)の「江戸名所花暦」には、上野の寛永寺、墨田川堤、新吉原、神田明神、浅草寺、飛鳥山などが並んでいる。明治維新では残念ながら、風流を解しない志士たちによって、桜の名品が数多く切り倒されてしまった。

さくらの分類

 桜はバラ科に属し、サクラ亜科、サクラ属の落葉樹で、野生種と園芸品種に大別される。サクラ属は世界中に分布するが、日本には多くの種類があり、その点では世界一という。ヤマザクラなど九種を基本にして、約百種類のサクラが野生しており、園芸品種は二百種類以上にもなるという。

染井吉野

 「ソメイヨシノ」。山桜の代表は奈良県吉野山の自生のヤマザクラ野生種である。これに対して八重咲きを中心とする庭植えの桜をサトザクラという。ヤマザクラやサトザクラはどちらも花と葉が同時に出てくる。
 しかし園芸品種の代表となった「ソメイヨシノ」は花が早く、葉が後で出てくるので華やかに見える。染井吉野は、江戸時代の末頃、江戸駒込の染井村で生まれたが、明治時代に人気を呼び、日清、日露戦争の戦勝記念として日本中に植樹された。平均気温十二度が続くと目を覚まし、北上しながら咲いてゆく。つまり桜前線とは、染井吉野の開花情報ということになるのだ。
 大きな花びらが一気に満開になる。そして一陣の風に未練もなくさっと散る。散り際のよさに惚れ惚れして、いつの間にか知らず知らずのうちに武士道の下に「俺も散るぞ」という催眠に罹っていった。日清、日露戦争から昭和時代、特に第二次世界大戦までのこと、敗戦の直前に自ら散った若者のことを思うと無性に悲しい。
  ソメイヨシノは成長も早いが、衰えるのも早い。五十年もすると肌がガサガサになり、虫害にも弱い。ヤニを出して修復につとめても間に合わず枯れてゆく。


■消えた志木小学校の桜
多数の市民の反対にもかかわらず校舎は改築され、
失われた校庭の桜

旗桜

 「ハタザクラ」。ヤマザクラの雄蕊の一本が花弁に変化して、これが旗を立てたような花をつける桜を「旗桜」と言う。六枚の花弁をもつようにも見える。江戸時代、「江戸の三名桜」として知られた東京都文京区白山の白山神社にある旗桜は、昭和十年(一九三五)国の天然記念物に指定された。当時の樹は高さ五メートル、幹回り三、五メートル、推定される樹齢は千年だった。しかしその後枯れて、いまあるのは二代目である。

長勝院旗桜

 志木市では二月十七日、市内柏町の長勝院跡地にある樹齢四〇〇年以上と推定される長勝院旗桜を、「市民の木」とすると発表した。今年この桜が市の文化財に指定されてから十年となることを記念するものだ(告示は四月一日)。

 高さ十一メートルのこの旗桜は、花が大きく、開花時の花の付き方がにぎやかで、一九九八年九月、日本桜の会が発行する「櫻の科学」で新品種として紹介されている。
  志木市ではすでにこのサクラに因んだ和菓子や清酒が販売されているが、市内の老舗「八百国」でつくったハタザクラ饅頭は、今年の全国菓子コンクールに出品されて金賞を得た。毎年四月には現地でハタザクラ祭りが開かれ、市民の春恒例の楽しみとなっている。

 平成五年、志木市では環境活動のリーダーを養成するためのセミナーを開き、終了した人々を「環境教育推進員」として認定した。この方々の活動のはじまりは「ハタザクラ」の調査であった。
 「環境教育推進員」(代表・尾崎征男氏)は旗桜のクローンをつくり、各所に植樹した。また平成九年には市内の大木、古木の調査を開始、木の種類、高さ、太さ、歴史などをデータベース化した。前号で取り上げた「背戸湧水」もこのグループの調査のさいに、斜面林の中から堀り起こされた。

鎌倉街道に沿った長勝院

 長勝院は前号で取り上げた大和田の「普光明寺」の末寺に当たり、その創建については諸説がある。かつての「鎌倉街道」に沿い、この地にあった「柏の城」の主、大石氏の持仏堂が寺院に取り立てられたという説、田面郡司(たのえのぐんじ)藤原長勝(おさかつ)の霊を祀った寺という説のほか、水子村(現在富士見市)の大応寺から移ってきた僧侶が開山したという説もある。
 長勝院はその後の無住期に荒廃し、多くの寺宝・什物は失われた。本堂も戦後に解体された。このような苦しみに遭遇した寺、そこに残された老桜の哀しさは胸に迫る。


■銘木の桜を背景にして撮影
恒例だった志木小入学式の記念写真

跡見学園の桜

 川越街道を北上し、新座市大和田を過ぎて「英(はなぶさ)橋」インターチェンジに差し掛かる。坂を登りつつ「中野」に入ると、左側の高台に「跡見学園女子大学」のキャンパスが開けてくる。一九六五年オープンしたとき、樹木の無い農地であったが、学園にゆかりのある篤志家の寄贈によって桜が植えられた。
 貴重な品種を含めて三十五品種、二百四十本あまり、京都で江戸時代から続く名門の植木職、桜守として著名な佐野藤右衛門氏が育成した桜の苗木が京都から運ばれた。苗木だった桜は三十七年を経て、幹の太さも一メートルを越えた。成長した多品種の桜には、早咲き、遅咲きがあり、三月に卒業する学生、四月に入学する学生は華麗なキャンパスに歓声をあげる。

 残念なことだが、現在この桜は一般には公開されていない。この桜に魅せられた卒業生の一人、岡村比都美さんはこれを残念に思い、地域との交流を念じて学園側の理解を求め、きたる四月十二日には、学園内で桜の勉強会を公開で開くことになった(予約制、整理費五百円、申し込みは桜を楽しむ会宛て□FAX:048-755-2177)。

 現在名札が付けられているものは、野生種として、大島桜、江戸彼岸、山桜など。園芸品種として、妹背、御室有明、雨宿、新墨染、日吉桜、手弱女、関山、嵐山、鬱金、衣笠、一葉、菊桜、松月、朱雀、玖島、福禄寿、普賢象、佐野桜、駒繋、太白、琴平、白雪、枝垂桜、八重紅虎尾、染井吉野などがある。

 この記事を書くさいに、次の資料を参考にさせて頂きました。厚く御礼申し上げます。

1、深谷良男「はたざくら考」志木市郷土史研究会誌、25 、平成八年十一月刊、p38〜49

2、神山健吉「志木市の寺院」志木風土記、9集、昭和六十二年十二月刊、p13〜17 (志木市)

3、岡村比都美「跡見学園女子大学の桜」櫻の科学、 9、2002年刊、p66〜70 、



■跡見学園の桜「御室有明(左)」「八重紅虎尾(中」「八重紅枝垂(右)」

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