引又宿の賑わい


「引又」のころ

 東武東上線の「志木駅」東口を降り、歩いて約16 、7分、本町1、2丁目の大通りは、江戸時代から新河岸川の舟運によって賑わっていた。明治初年までは街道の宿場でもあり、「引又宿」と呼ばれていた。


新河岸川の舟運
 

 ときは江戸時代、寛永のころに遡る。埼玉県西部の中心都市「川越」は、かつて江戸城北方の重要な防衛拠点だった。
 江戸と深い関係をもった史蹟が数多く残る川越は、いまも「小江戸」といわれているが、寛永十五年(1638)大火に襲われ、市内の重要な建物だった東照宮、喜多院などが焼失した。当時の東照宮は三大東照宮の一つに数えられていたので、徳川幕府はその再建のために大変神経を使った。
 さっそく江戸城にあった紅葉山御殿を分解して、用材を川越に移築することになり、その運搬には陸路より効率的な新河岸川による水運が選ばれた。新河岸川の舟運はこのときはじまったとされている。また川越からは農産物が江戸に送られ、その後新河岸川の舟運は次第に整備され、ついに川越と江戸との物資交流の大動脈となった。

 江戸と川越との物資の輸送のため中継点が必要になり、現在川沿いに建っている志木市市役所の下流、柳瀬川と合流する地点に船着場が設けられた。当時この辺りは引又村といわれており、その河岸(引又河岸)に、川越藩主の命令によって、「井下田回漕店」が開業した。
 回漕店を支えてきた井下田家は、初代から十八代にわたり綿々と引き継がれたが、十六代慶十郎は舟運に代わる交通機関として東武東上線「志木駅」の誘致に努め、十七代四郎氏は志木町長として、また現在の当主十八代井下田慶一郎氏は志木市駅前の整備などによって地域に貢献されている。伝えられた古文書は五百点以上にのぼり、志木市の歴史を形作る重要な資料となっている。
 井下田四郎氏が執筆された「引又河岸の三百年」(非売品)によると、荷主の分布は、新座、清瀬、所沢、小平、国分寺、武蔵村山、立川を越え、秋川、青梅、八王子にまで達していた。新河岸川に沿って開設された多くの河岸場の中でも、引又河岸が取り扱う荷物の量は非常に多く、河岸場の中で重要な地位を占めていた。

 船着場は、「奥州道」が新河岸川をまたぐ旧「栄橋」のたもとに位置していた。
 荷揚げされた荷物を運搬する人々は、だらだら坂を上ってゆく。回漕店の作業所は、船着き場から突き当たりまで、この通りの右側に続いていた。
 旧「栄橋」を渡った奥州道は、昭和20年代に架けられた新「栄橋」を通過する志木街道(浦和東村山線)と、同じ頃新設された防衛道路(川越新座線)に旧井下田家の前で交差する。いまこの「市場坂上」交差点は、交通のもっとも激しい地点となっている。
 舟運が栄えていたころの「井下田回漕店」のたたずまいを偲ぶことはもはやできないが、土蔵と井戸などが残され、敷地の一部は市の公園として公開されている。この地点には、もう一つの小道がつながっていて、現在の「日本ワイスレダリー」の工場へと入ってゆく。「鎌倉街道」の跡とも言われる細い道だ。

中央を流れる
伊豆殿堀


 商いで繁栄した「市場通り」はこの交差点、坂上からはじまるのだが、もう一つ、引又宿に欠かせないものがある。それはこの大通りの中央を流れる「伊豆殿堀」(野火止用水)だ。この用水については、すでに本紙2号で取り上げた。承応四年(1655)に川越城主松平伊豆守信綱が、自領であった「野火止」の原野を開拓するため、灌漑用水として掘削したもの。

 伊豆殿堀は当初志木市のメインストリートを貫通し、新河岸川に流れ込んでいたが、寛文二年(1662)、引又の対岸、宗岡地域の地頭岡部左兵衛は、新河岸川を越えて送水し、灌漑用水に利用しようと考えた。そのため家臣の白井武左衛門に命じて巨大な架け樋を造らせた。
 この架け樋は四十八個の木の樋をつないで造られていたことに因んで「いろは樋」と名付けられ、長さは260メートルにも及んでいた。しかも舟の通行を妨げぬよう川面から4〜5メートルも高いところに架けられた。樋は「江戸名所図会」に描かれ、この絵は国立公文書館内閣文庫に所蔵されている(図1は原画を修飾したもの)。
 この用水の水は、小枡、大枡を経て、「いろは樋」を渡っていたが、木製の樋は、明治のころ鉄管に変えられ、川底に埋められた(この鉄管は現在「いろは橋」の宗岡側の橋のたもとと志木市郷土資料館とに陳列されている)。

軒を連ねる商家

 河岸場から運ばれた荷物は、この通りで取引きされたため、市場として繁昌した。また「奥州街道」の宿場として、人馬継ぎ立て業務をも行なっていた。江戸時代の紀行文にも、軒を連ねた商家の有様が生き生きと描かれている。明治になって宿場の機能は失われ、また上野〜高崎間の鉄道などの開業によって、河岸場でも荷主の分布が狭められたが、活況はつづいた。
 この通りでは、二・七の日に定期的に市が開かれ、出店の商人や買い物客は、近隣はもとより、遠隔の地域にも及んだ。「引又宿」は志木町と呼ばれるようになったが、明治十四年の「東京近方市場一覧」によると、関東の主要な地域の番付けで、西前頭十四枚目にランクされている。

 町の中核をなしていた引又宿の「市場」には、酒造家、肥料商、穀物商、呉服商、荒物商などの大店(おおだな)が並び、広い地域にまで販路を広げていた。櫻の並木に挟まれた「伊豆殿堀」がその中央を流れていた。
 裕福な商人の社交の場所であった料亭からは、夜な夜な三味線の音や、芸者たちの嬌声やさざめきが聞かれた。文人の紀行文からも、このような賑わいが伝わってくる。

 大正三年、東武鉄道東上線が開通し、舟運に取って代わるまで、賑わいは昭和の時代、戦前まで続いた。

 江戸時代中期のころから、引又宿の景観と風情は、多くの人々に愛されてきた。紀行文のほか古地図も残され、いまに伝えられている。

参考資料
1.井下田四郎・引又河岸の三百年、1974、非売品
2.神山健吉・百年前の志木、郷土志木、28号p20 (1999)、志木市郷土史研究会

謝辞
 紀行文の注釈は神山健吉氏の校閲を戴いた。

 

■参考文献■

『遊歴雑記』 釈 敬順(注1) 文化年間

新座郡引又宿


(前略)されば引股の宿ハ、南北の町長さ三町余、新宿、本宿、中宿、坂下町と次第して町幅広く穀問屋あり、酒楼、食店、商家、旅籠屋両側に軒をつらね、片鄙には都会の土地にして、例月三、八の日市のたつ事となん、扠又当処新宿の入口より、町の真中に大樋を堀埋め、幅三尺余、深さ四五尺、新宿の方は高く、坂下の方ハ次第に低けれバ、清流迸り来り実にいさぎよし、此大樋の側にいたりて、市中の男女よろづのものをあらひすすぎ飲水とす、元来此土地高みなれバ水に乏しき場処なるに、斯潤沢に清流に富事ハ、全く伊豆守三代目松平信綱が高智のいたす処にして、万宝の最上といふべし、此埋樋の両側に、柿と梨との二樹を植る事凡長さ弐町、頃は九月九日なれバ梨柿ともに見事に熟し、重たげに樹たハミ、枝垂て、人の手おのおの届くといへども、児童だに狼籍せざるハ一品にして、土地に沢山なる故ならんかし。(後略)


『一日二日の旅』 東京の近郊
 田山花袋(注2)

大正九年六月十五日


(前略)野火止の街道の右側では、例の溝渠に添って、農婦が頻りに物を洗ってゐるのを私達は見た。やがて少し行ったところから、四角を右に折れて、私達は志木の停車場のある方へと行った。
 停車場近くに来た時には、もう灯が明るく夕暮の空気の中に見えてゐた。路の傍には、綺麗な水の一杯に満ちたその溝渠が流れてゐて、ある処では盛に水車が動いていたりした。そして、その溝渠と一緒に、私達はさびしい、しかし静かな昔の引又の里へと入って行った。
 その溝渠を中央に持ったその町は風情に富んだ町であった。大きな穀屋だの、運漕店だの、呉服店だのが軒を並べてゐた。河港らしい感じがそことなくあたりに漲ってゐた。私達はそこの中ほどにある一旅館のひろい一間に一夜をすごした。
 此町は武蔵野の中でも最も古い名高い町であった。此処は往昔の奥州街道になってゐて義経などもここを通って行ったと言ひ伝へられてあった。それは所沢からわかれて来て此処から荒川を渡って、河口から、岩槻の方へと出て行った。
 あくる朝早く、私は町を歩いて見た。その溝渠の岸には桜が栽ゑてあって、その下では町の人達が物などを洗ってゐた。そして、この溝渠は、昔はいろは樋で内川(注3)を越して向ふに行くやうになってゐたのが、今は、町の外れで大きな鉄管になって、川の底を越えて、向ふに行ってゐるのを私は見た。
 だらだらと坂を下りると、町はやがて尽きて、向ふには風情のある橋がかかってゐた。川の岸には青々とした芦荻が茂って、荒川を上って、更に此処まで入って来た伝馬が帆を畳んだまま二三隻其処にかかってゐた。成ほど此処は武蔵野の河港であるのであった。(後略)

(注1)釈 敬順…江戸を中心として各地の名所旧跡を踏査し、全五巻の「遊歴雑記」を完成させた。この著作は近世紀行文中の白眉とされる。
(注2)田山花袋…明治・大正時代の自然主義派の作家。「蒲団」や「田舎教師」などの作品がある。
(注3)内川…後の「新河岸川」。荒川の内側を流れるところから、名付けられたという。その後江戸との舟運のため、川越に河岸場がつくられ、新規の河岸から流れてくる川という名称(新河岸川)が、もとの「内川」に取って代わった。


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