大地礼賛
水車あれこれ
水車が使われるようになったのは江戸時代のこと。
台地を流れる川やその分水を利用して、高低差で水車を廻し、作業の動力として使用された。
水車の仕組み
籾(もみ)から稲の殻を取り除くと玄米に、さらに茶色の薄い皮をはがすと白米になる。玄米を臼に入れ、杵(きね)でついて米同士を互いに擦り合わせるのだが、人力での作業はつらいものだった。踏み臼や水車がそれに代わって杵を動かす力になり、精米業が成立した。剥がされた外皮は米糠で、肥料や漬物に使われた。
水輪の芯棒が水の流れで廻ると、噛み合わせてある杵がもち上がり、上までゆくと杵の重みでドスンと落ち、穀物をつく。あるいは、石臼を水車で廻し、穀物を粉にする。このときは心棒の歯車(図1)と石臼に付けた歯車を噛み合わせる。小麦、大麦、そばの粉引きは製粉業になった。
この地方は江戸という大都市を控えていたので、雑穀を製粉して商品とし、うどんや菓子の原料として売り捌いた。武蔵野台地に水車をもつ農民は、こうして富を蓄えた。
水車に使う分水が平らな台地を流れるときには、廻し堀という水路に水輪を架け、使った水をまた下流の本流に戻すことが普通だった。高低差がある崖の端の水路では水輪の上部から水を掛け、大きな力を得た。
水車の分布
この地域で使われた水系は、野火止用水のほか、黒目川、柳瀬川など。
新座市立歴史民俗資料館には、黒目川の水を使った新座市石神の新井家の水車の模型が展示されている(図2はその模型と見取図)。新井家の水車の水輪の直径は四メートル近くあり、水輪の直前で落差をつけて回転する仕組をもっていた。また水車にかけた水を、トンネルを掘って黒目川に戻す工夫がなされていた。水車小屋の中には、粉挽き場と米つき場があった。
志木街道が東上線を潜る手前から志木市幸町に向かい、現在の志木ニュータウンを経て、柳瀬川に流れ込んでいた野火止用水の分水を使って操業していた尾崎水車は、明治から昭和七年ころまで、近在、近郷の人々によって利用されてきた。しかし、昭和二十三年に解体された。
大野 進氏は記憶によって尾崎水車を見事に描かれている(図3)。
志木市内を流れていた野火止用水の本流には、東上線のガードを潜ってすぐ村山水車があり、パルシティ通りとの交差点角には上の水車(図4)、市場坂上付近には下の水車があった。かつての「引又宿」(2面参照)の繁栄の一面を、水車による精米が担っていた。志木市郷土資料館に模型が展示されている。
新座駅前の広場では、最近水車が廻り、また朝霞市博物館では湧水で水車を運転しているので、その景観を楽しむことができる。
水力から電力へ
さて幕末のころ、黒目川に水車を掛けて針金を引く産業が起こり、朝霞市膝折の伸銅業に引き継がれた。
伸銅とは、銅や真鋳などの銅合金を伸ばして棒・線・板・条(リボン状の細長い板)・管などを製造するもので、昭和三十年ころまでもっとも有力な地場産業だった。しかし電力が供給され始めてから、動力はもっぱら電力に依存することになり、また河川改修のため、水車は急速に姿を消した。
戦後は諸外国からの金属の輸入、技術革新の波に洗われ、朝霞市が誇る膝折の伸銅業は次々と転業を余儀なくされた。水車はついに消滅し、膝折の景観は大きく変わった。
参考資料
1・肥留間 博著…「玉川上水」、親と子の歴史散歩、たましん地域文化財団発行
2・新座市立歴史民俗資料館の資料(図1・2)
3・朝霞市博物館調査報告書第一集、水車・伸銅・にんじん
4・神山 健吉…近世引又の水車。郷土志木、3号 p46 (1974)、志木市郷土史研究会
■図1 欅、樫などの堅い木で作られた水車の歯車
■図2 新井家の水車見取図と模型
■図3 尾崎水車を偲ぶ絵
■図4 尾崎水車の跡地はいま
■図5 志木市の「上の水車」のモニュメント