変貌する朝霞駅前
戦時下の「被服廠」


 軍事施設の一つ、「陸軍被服廠」が赤羽(東京都)から朝霞駅前に移転してきたのは、昭和十六年(一九四一)のことだった。昭和六年に「満州事変」が起こり、これを契機として軍人の独走が始まった。昭和十二年(一九三七)には日中戦争が勃発、国全体が戦時の体制になってゆき、ついに四年後の昭和十六年には、太平洋戦争に突入した。


「被服廠」とは

 被服廠(ひふくしょう)は、軍人が身につける軍服、靴、鉄兜などをつくる施設のこと。
 戦争の拡大と共に本廠が手狭になったため、被服廠の分廠をつくることになり、東京近郊の朝霞に白羽の矢が立った。その敷地は、現在の市役所庁舎の南側から県道新座・和光線(川越街道)に至る、十七万坪に及ぶ広大な土地であった。

 

敗戦によって跡地は

 敗戦によって被服廠の跡地は、隣接していた、より広大な陸軍予科士官学校の敷地とともに、米軍に接収される。一帯は「キャンプドレーク」と呼ばれ、被服廠の跡地は「ノースキャンプ」となった。戦時中には、朝霞駅の手前から分岐した線路が引かれ、被服廠内に製品や材料を輸送していたが、接収されてからも、米軍の専用列車は基地内に直接乗入れ、物資の輸送に使用した。また朝鮮戦争の出兵にも使われた。
 キャンプ朝霞はアメリカ軍の極東の基地の一つとなり、昭和四十年(一九六五)ころ、ベトナム戦争のさいには、ノースキャンプ内に野戦病院が建設され、傷病兵を運ぶヘリコプターが絶え間なく発着した。
 このころから市民団体によって基地返還を要求する運動が盛り上がり、昭和四十九年日米政府関の協議によって、一部の地域を除く大部分のキャンプ地の返還が決まった。
それより前、昭和二十九年には基地の一部が返還され(いまの市庁舎の場所)、川越高校定時制の校舎が建設されたが、昭和四十二年朝霞町は市制を施行し、四十七年には新市庁舎で業務を開始、返還された土地の一角に中央公園、総合体育館、図書館などを建設した。県及び国に返還された地域を含めて、この地域は大きな変換を遂げた。

 

過去に遡ると… 

 いま朝霞駅前は一等地となっているが、昔はどうであったか。歴史を振り返ってみよう。古く江戸時代、この辺一体は広沢の原と言われ、かやの野原、雑木林が続いていた。この光景を偲ぶよすがはまったく無いが、住みついた農民は原野を開墾して畑をつくり、麦、さつまいも、おかぼを作付けした。今の市役所のあたりには、二本松の方から大泉に抜ける道があったが、家は一軒もなく、野原には兎や狐が飛び回っていたとという。明治時代になっても、町の中心は膝折の宿にあって、そこまでは畑と武蔵野の雑木林が続いていた。

 

大正三年に東武東上線が開通

 東上線に「膝折駅」ができたが、二、三軒の商店のほかには見るべきものは無かった。村役場は膝折の一乗院の敷地を借りて執務していた。昭和七年には膝折村が朝霞町となり、町役場が新築されたが、その頃は畑の中にポツンと役場が建つ静かな農村だった。ようやく駅前通りがつくられた。町役場はいまの市役所が新築されてから、保険センターになっている。

 
用地の取得はじまる

 日中戦争、太平洋戦争と続く農村では、男子は兵隊にとられ、農業に携わるのは女子と老人のみで、小学生までが農家に勤労奉仕隊を組織して手伝いをした。田や畑を耕す人はいなくなり、雑木林を掃いて堆肥をつくる人もいなくなって、荒れ果てた。
 誰もが困っていたとき、政府の指令を受けた人々が、留守を守る女性や老人、子供の家を訪れ、被服廠の用地としての農地を買い占めていった。印鑑をもって役場に集められ、政府の方針であると説明して、農地の譲渡を強制した。「坪当り一円五十銭で印を押させられた」そうである。長年耕作に当ってきた地主の関係者は、その頃を思い出していまも無念な思いに駆られている。幸いに戦争から帰還できた農家の男性も、ふたたび農業に就くことができなくなり、落胆した。



あの頃の光景は

 被服廠があったころ、朝霞駅を降りると、畑の向こうに町役場があり、その前は、竹矢来の垣根が気が遠くなるほど長く長く続き、中には、被服廠の建物の他、多数のシートをかけた荷物の山が積まれていた。その先、いまの緑ヶ丘には、被服廠に勤めていた軍属の住宅が並んでいた。
 また県道保谷・志木線に沿った朝霞市下の原から志木駅にかけての雑木林(現在では倉庫、大型店舗が並んでいて、当時の趣きはまったく無い)には、軍需物資が野積みされていた。
 戦後敷地内に積まれていた物資は、米軍の進駐に備え、近くの農家の納屋に移されたが、終戦直後は無政府状態となり、混乱に乗じてこれらの物資を夜中に盗む人々の影は絶えなかった。滅茶滅茶な、そして浅ましい光景だった。

 これまでの記述には、金子 真氏のつぎの資料を使わせて戴いた。
金子 真/朝霞の軍事基地の歴史(その一)戦前と戦後の十年、「季刊にいくらごおり」第十三号(1979)

 

徴用と徴兵

 戦時下には徴兵制度があったので、男子は二十歳になると検査を受け、健康であれば有無を言わせず徴兵された。ところが戦争が拡大し、非軍人をも軍備に巻き込んでいった。二十歳以下の若い男女を徴用し、軍需工場などで働かせた。当時の被服廠の作業は、徴用工員の手で行われたのである。

 

徴用工の体験を語る

 以下の体験記は、星野伊三郎氏の著書「徴用工員始末記」をテキストとして記したものである。
 昭和十七年(一九四二)三月、ここ朝霞駅前は、埼玉県のほか、栃木、茨城、福島、岩手、青森の各地から徴用された若者と、これを見送る家族、友人でごった返した。徴用令状を受け取った星野さんはそのとき十八歳だった。

 

いよいよ入廠

 今日のようなバスではなく、母衣(ほろ)付きの貨物用の輸送車がお迎えとして使われた。この自動車は駅前を出て、駅前通りを直進、万年塀(上部には有刺鉄線が張ってあって、侵入、脱走を防止していたようだ)に沿って西に進む。数米の松が所々に根を張って立ち、練兵場(軍事演習用の敷地)を思わせる外観をもった広々とした被服廠の敷地には、大小さまざまな建物が並んでいた。
 二キロメートルほどゆくと西門、ここが「守衛所」で、面会も外出も一切断ち切られるので、徴用工員にとっては、まさしく恨みの門であった。いまだ工事半ばの砂利道を通って廠内に入るとき、今きた道を振り返ると、黄色い砂塵が舞い上がっていた。
 この西門を入ると直ぐ右側に、周囲には板塀を巡らした、木造で仮工事の建物があり、これが男子寮第一寄宿舎であった。低い上がり框(かまち)を入ると左右に廊下、それを結ぶように十字に廊下が付けられ、十部屋が一列に並んで六つの寮があった。玄関の正面には事務室、名ばかりの娯楽室があった。各部屋は十二畳半、ガラス戸を開けると踊り場で、何もない部屋に押入が十二、十名が割り当てられて、その部屋の住人となった。下段に寝具が入っており、上段には私物を入れた。早速与えられた作業衣、作業帽を付けると、まさに産業戦士同士となった。お互いに名乗り、今日から助け合い、労(いたわ)りあっていくことになるのだ。
 各寮の廊下に整列、ながい廊下を通って事務室の裏側にある講堂へ、各県からきた六百名が勢揃いする。ここではじめて舎監のお話、「古今未曾有の一大事にあたり…勝つために頑張って」を聞く。

 

点呼で始まる寄宿生活

 「起床っ!」「起床っ!」
 まだ明けきらぬ五時三十分。興奮と緊張の連続で眠られぬ夜の夢が破られた。入廠一日目の朝がきた。後日ラッパ手が養成されてラッパとなった。
 洗面所は、トタン張りの流しに蛇口が二十個位付いていた。 
「点呼整列っ!」
 一寮百名、六寮六百名が奇宿舎前の道路に整列した。
 六時三十分日朝点呼。営内靴というのが足に合っていない。
 「日直士官殿に敬礼っ。頭右っ!」
 この日は伊達大尉(あとで聞くと、奥州伊達家の後裔で、男爵の伊達重郎だった)。紅白縞模様のたすき、白手袋、赤い長靴、長めの軍刀を腰に、きゅっと角の立った赤い軍帽。誠に威風堂々の将校だった。

 次第に戦争は激しさを増し、米軍機の本土来襲は本格化してきた。廠内も緊張感が高まり、工員としての作業はもとより、同時に軍事教練や、防空壕の設営も忙しく、徴友のうち、徴兵される者、かつての満州(現中国)の施設への転勤者がつぎつぎと現われた。星野さんも、それから二年半の間廠内で奇宿生活を送ったあと徴兵され、野戦車砲兵隊に入営、軍隊生活を体験することになった。
「徴用工員始末記」には、星野さんの青春が率直に語られている。被服廠で過ごされた方々の体験は、当事者の思い出としてだけではなく、掛け替えの無い記録として、のちに残すべきものだ。忘却の彼方に追い遣ってはならない。

 

参考資料
あさかの歴史(朝霞市市史編三室編)、発行/朝霞市

謝辞
 紀行文の注釈は神山健吉氏の校閲を戴いた。

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