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志木に生まれて九十年

 吉江正男さんは、大正二年(一九一三)、志木市本町二丁目、敷島神社の傍で生まれた。富士通りには野島機屋(はたや)さんがあって、衣料や絨緞をつくっていた。吉江さんは十六歳から村山快哉堂(廃業して、店舗は親水公園に移築された)に住込みで働いていた。
 以下、思い出すままに語って戴いた。
聞き手:安斎達雄

市場通り  市場通りは、西側が県道、東側が町道になっていて、自動車が走るのは西側だけだった。だから、一車線を北へ行く車と南に行く車とが走っていたわけだが、車が通ること自体が珍しい時代で、特に支障もなかった。
 市が立ったのは東側の町道である。しかし、大きな市が立つときは西側も使った。二月二日の旧正月にたつ市は特に賑やかで、スリも出たほどだった。通りの中央を流れていた野火止用水の両側には、銀杏が植えられていた。市場通りには、酒屋・うどん屋・豆腐屋・魚屋・床屋・風呂屋などが立ち並び、水子・南畑などからもお客が集まってきた。

 今の川口信用金庫のそばに「志木劇場」があり、近隣から客を集めていた。横町には「幸乃座」という劇場があり、映画・演劇などをやっていた。市は二と七の日に開かれた。いろいろなものが売られていたが、古着・古道具・植木などが中心だった。当然、野菜とか米とか、地元でいつも売られているものは市には出なかった。
 浦和の方面から、自転車にのった少年が、『わらづと』に入った納豆をよく売りに来ていた。
 旅館は江戸道にあったが、市場通りの料理屋さんの「伊勢周」「田中屋」でも人を泊めていたようだ。昼間から芸者をあげる人もいた。
 何軒かの開業医院があったが、その玄関先には必ずといってよいほど人力車が待っていた。当時、医者の往診は人力車で行われていた。
 薬局は村山のほか原さん内田さんがひらいていた。それぞれ店売りが主だったようだが、配達もした。配達は遠方というよりは近場が主で、多くは自転車が使われたが、吉江さんは時にはバイクで配達にあたった。どちらかというと、村山快哉堂では薬の製造に力をいれていたのだが、原薬局では、医者に薬を届ける、いわゆる「医者回り」に力をいれていたようだ。


乗合自転車 当時、村山快哉堂では薬局のほかに自動車部をもち、乗合自動車を走らせた。最初は志木・所沢間、少し遅れて志木・東村山間、志木・朝霞間に乗合を走らせていた。バスという言葉は、この辺りではまだ使われていなかった。志木・朝霞間に乗合自動車を走らせることになったのは、朝霞に紙幣に使う紙の工場が出来ることになり、その通勤客を当て込んだからだ。しかし、工場建設計画は実現されず、運行も取り止めとなった。
 乗合自動車の当初の発着場は村山快哉堂の店の前に置かれ、後には旧栄橋の手前に変更された。車庫も、旧栄橋手前の高須回船問屋の倉庫を借りて使っていた。最初は四〜五人乗りのフォードを使い、やがて十一人乗りの車が使われた。乗合自動車は志木・所沢間、志木・東村山間にそれぞれ二台ずつあった。乗合自動車を待つ場所は大体決まっていたが、特に停留所といったものはなかった。乗車したい場合、自動車が止まる辺りの場所の道路脇に旗を出しておく方法もとられた。上り・下りで赤・白に分かれていた。志木・浦和間の乗合自動車には、赤・白の旗を出した。降りるときは、手を上げればどこででも降りることができた。
 吉江さんも若いころ、何度か乗合自動車の運転をさせられたことがあった。道路には信号も横断歩道などはなく、車が珍しい時代なので、自動車の前に子供が飛び出してくるので注意が必要だった。東村山行きの乗合自動車は、のちに多摩湖バスに買収された。

 村山快哉堂では、毎年一回、一泊の乗合自動車旅行をしていた。店で働いている人だけではなく、近所の人も呼んだ。旅行とは違うが、ご子息が結核療養のため河口湖に出掛ける時など、主人の弥七さんも同道で車を河口湖まで飛ばし、そこに車を着けて、そのまま富士山登山をしたこともあった。また、夏には漁師の舟で両国の花火を見にいったこともある。ボートは河口まで自動車で運び、そこから舟でくりだした。朝出発して夜中に帰ってくるのが普通だった。昼間の太陽をさえぎるために、舟にはテントを張った。

本町通りと宗岡 当時は栄橋しかなかった。ただし、今のいろは橋にあたる場所は、川の流れはないものの湿地帯で、低い石橋が架かっていた。この石橋は雨が降ると水の中に入ってしまい、旧栄橋が健在であっても宗岡に渡ることはできなかった。当時の新河岸川では、子供たちが水につかって遊んでいたが、水は決してきれいではなかった。

 いま、本町通りを志木駅に向かうと、双葉町のバス停の手前で二手に分かれる。右手の道は東上線の下をくぐり抜ける。江戸時代からの古い道で「旧道」とよばれている。左手の道は丸井にぶつかる通りとなっているが、大正三年(一九一四)に東上線が引かれ、志木駅が出来るとき、駅に向かう道として新しく作られたもので、「停車場新道」と呼ばれていた。旧道には点々と店が建っていたが、新道には吉田屋という料理屋が目立っているだけだった。そのかわり、旧道との分岐点から志木駅までの道には、桜の木の長いトンネルが続いていた。
 また、栄橋手前から新座市の大和田に抜ける「防衛道路」は、栄橋手前から星野石屋さんまでの間は戦後新たにつくられた道路だが、そこから南の新座寄りの道は当時からあったものだ。
 当時、宗岡は田んぼばかりで、家がぽつんぽつんとあった程度だった。川魚料理の「鯉清」からは宗岡小学校を見通すことができたほどだ。また、当時の宗岡では猟銃を使った猟が許されていた。獲物はもっぱらカモだ。吉江さんは猟をたしなむ父親に連れられ、腰に獲物のカモをぶら下げさせられたという。


井戸水汲み 子供のころの遊びは、べーごま・めんこ・兵隊ごっこ・たこあげ、女の子だったら縄飛びなど、ほかの地域と同じようなものだろう。
 こどもの仕事として思い出されるのは、井戸の水汲みだ。各戸ごとに井戸があったわけではなく、どこかの家の井戸を共同で使うのが普通だった。吉江さんの家では、近くに桶を天秤棒でかついで毎日井戸水を汲みにいった。道路は舗装されていなかったので、乱暴に歩くと、泥が跳ねあがって桶に入り、よくおこられた。風呂を沸かすときは、何往復もしなければならなかったので、特に大変だった。同じ井戸を使っている家々では組合をつくり、掃除を分担した。かつての井戸組合がもとになった十軒ほどの「組合」がいまも残っていて、お葬式のときなどお互いに手伝っている。

 この辺りのお祭りといえば敷島神社のお祭りで、今は七月の夏祭りになっているが、当時は五月十日に行なわれ、神楽も催された。ほかに、節分の豆まき、お炊き上げなどが行なわれた。お炊き上げとは富士山(田子山富士)の火祭りのことで、多分八月二十六日だったと思うが、富士吉田の山じまいの日と合わせて、境内の三箇所くらいの場所で火を炊いた。皆は、その燃えカスの蒔がほしくて取りにいった。その蒔を軒下に下げて置くと、火事除け、災害除け、安産のまじないになったからだ。それこそ皆は薪を奪いあった。



池田 要(かなめ)氏
制作
切り絵になった市場通り
(本紙九号二頁参照)

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