新座郡とは?
―近隣4市の1000年の基盤―
歴史的な共通性
賛成か反対かは別として、朝霞・新座・和光・志木四市の合併問題が幾度となくテーマとされてきた。もし合併するのであれば、この四つの市で行うのが一番よいのではないか、という共通理解のようなものが、なんとなく住民の中にあるのだろう。
それはなぜであろうか。それは、朝霞・新座・和光・志木(宗岡はもと入間郡)の四地域が、七五八(天平宝字二)年から一八九六(明治二十九)年までの約一一四〇年間にわたって、おなじ新座郡(当初は新羅郡)にあったためであろう。
もっとも、現在は西東京市に含まれる旧保谷市地区や、練馬区の大泉地区も、もとは新座郡に属していた。この東京地区をのぞけば、上記四市域が、歴史的つながりから互いに親近感をもちあうことは自然であろう。
新羅からの渡来人
話は奈良時代にさかのぼる。七五八(天平宝字二)年八月、当時の政府は新羅の僧三十二人、尼二人のほか、男十九人、女二十一人を武蔵国の閑地に移住させ、そこに新羅(しらぎ)郡を置いたという。これは『続日本紀(しょくにほんぎ)』という勅撰の歴史書(七九七年完成)に書かれていることである。四市の原点がここにあるといえようか。
新羅というのは、古代朝鮮半島にあった国で、ほかに百済(くだら)や高句麗(こうくり。高麗とも書く)などがあった。
かれらは先進的な技術をもち、半島での戦乱を避ける意味もあって、日本列島にわたってくる人が多かった。こうした人たちを渡来人(とらいじん)と呼んでいる。
新羅からの渡来人が武蔵国に来たのはこの時が初めてではなく、すでに七世紀末からはじまっているし、新羅郡の設置後も移住が行われた。
県内ではほかに、七一六(霊亀二)年、東国各地にいた一七九九人の高麗人を集め、現在の日高市を中心とする地域に、高麗(こま)郡を置いたことが知られる。
渡来人は、最初は近畿地方に入り、要職につく者も多かったが、次第に東国に移住して、開墾にあたる人たちがふえてきた。
見つけ出された志木郷
当時、「郡」の下には「郷」が置かれていた。十世紀につくられた『和名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)』という百科事典的な本によると、新座郡は「志木郷」と「余戸(あまるべ)郷」からなっていた。当初の規定によると「郷」は五〇戸からなり、五〇戸にみたないものは「あまり分」として、「余戸郷」としたものだ。だから、形式的には郷が二つあったことになるが、一郷プラスおまけの郷といったところだ。新羅郡は、武蔵国のなかでもっとも小さな郡だった。
戸とよばれた家族は、今のような核家族ではなく、行政上の大家族のことである。八世紀の戸籍では一戸は平均二十五人位からなるので、それをあてはめると、新羅郡には一三〇〇名をこえる人たちがいたことになるが、当初の人口は少なかったものと思われる。いずれにしても、新羅からの渡来人よりは、地元に近い所にいた人たちのほうが、多かったものと考えられる。
ところで、突然とびだした「志木郷」という名が、気になって仕方がない人が多いのではなかろうか。
「志木」といえば現在の志木市を考えてしまいがちだ。だが、志木市域でこの名が使われるようになったのは、明治になってからの、引又町と舘村の合併問題をきっかけとしてである。このとき、合併後の地名をめぐって、一年以上にわたる紛糾がつづいた。
そこでやむなく、「引又」でも「舘」でもない地名をということで、県庁側の裁断を求めた。その結果、むかし新羅郡=新座郡にあった「志木郷」という地名が古書から見つけ出された。そして、一八七四(明治七)年、「志木宿」という行政地名が登場することとなった。「志木」の名の再生・復活といえようか。
もちろん、かつての志木郷の中心地が、現在の志木市域にあったかどうかとは、いっさい関係のない話ではある。おそらく志木市域にあたる所は、郡のはずれに近かったところから、未開地が多かった地域と思われる。
牛王山(ごぼうやま)のいい伝え
江戸時代後期の武蔵国の地理・歴史を知るうえで欠かせない本に、『新編武蔵風土記稿』がある。その本の新座郡上新倉村の項に、「古蹟新羅王居跡」の説明が書かれている。その部分を現代文風に書き直してみる。
「牛房山の上にわずかの平地があり、昔、新羅の王子が都から来たとき、ここに住んだという。『和名類聚抄』という本にのっている新羅郡の郷名志木というのは、この辺りのことで、志楽木(しらぎ)という文字の真ん中の字が略されたものであろう。(中略)この山の名も王子居跡からおこったものだから、御房山などと書くべきであろうが、いつのころからか牛房の字にかわったのであろう。これは村の老人の話である」とある。
この牛房山は、現在の和光市新倉にある牛王山(ごぼうやま)に比定されている。牛王山は北に荒川を望む独立した丘となっていて、旧石器時代から室町時代までの遺跡や遺物が確認されている。ことに弥生時代の遺跡としては、外敵からムラを守るために丘状にそってめぐらした濠も発掘されている。
しかし、これまでの九回におよぶ発掘では、残念ながら、上記のいい伝えを裏付けるようなものは確認されていないという。
新羅郡から新座郡へ
「新羅郡」は、平安時代になると「新座郡」と書かれるようになる。前述の『和名類聚抄』という本によると、その呼び方は「爾比久良」、つまり「にいくら」と呼ばれていたことがわかる。その変化が、いつ、どのような理由でなされたのかは不明だ。郡名の新座が「にいざ」と呼ばれるようになったのは、江戸時代の一七一七(享保二)年に、郡名の呼び方が定められてからのことという。
「新倉(にいくら)」という文字の地名が使われるようになったのは戦国時代ごろからで、 江戸時代以降も村名として使われ、現在も和光市の住居表示に使われている。「新倉」という文字表記の源流が「新座(にいくら)」にあることは容易に推測できよう。同じ和光市にある白子(しらこ)という地名も、新羅から変化した名といわれている。ちなみに和光市は、一九四三(昭和十八)年に新倉村と白子村が合併してできた大和(やまと)町が母体となっている。
すでに述べたように、志木郷の「志木」は、新羅=志楽木(しらぎ)からおこったものという。また、志楽(しらぎ)と表記していたものが、「楽」を草書で表したさいに「木」の部分が大きく書かれ、「志木」となったともいう。いずれにしても、「志木」に「新羅」という意味が込められているからこそ、新羅郡の中心郷に志木という名が付けられたのだろう。もちろん、古代の志木と現在の志木とは地域的に同一というわけではない。
新座市は、名前だけで判断すると、かつての新座郡の中心地に思えてしまう。しかし、一九五五(昭和三十)年に大和田町と片山村が合併して新座町が成立するまで、市域内では、新座という行政地名は使われていなかったようだ。
消えた新座郡
一八九一(明治二十四)年、新座郡の有志たちは、活発な東京への合併運動を開始した。明治政府の方針として、大小ばらばらだった郡の統廃合が進められ、新座郡が北足立郡に併合されることは必定だったからである。北足立郡と新座郡とは荒川をはさんで対峙する位置関係にあり、風俗、民情が違うというのも、北足立郡との合併反対理由であった。
その運動も功を奏することがなかった。一八九六(明治二十九)年、ついに北足立郡との合併が決定された。ここに一一四〇年におよぶ新座郡の歴史は幕を閉じた。だが、人々の記憶の中で、新座郡は生きつづけているのかもしれない。
「にいくらごおり」が発刊されて三十年余り
新座市は、武蔵野の面影をとどめる緑の自然と共に、昔から、「武蔵国新座郡」の文化が花開いていた。しかし戦後の高度成長の政策によって、開発の波は、貴重な遺産をこわし、住民の生活を脅かすに至った。座視するに耐えられない住民の方々によって、「新座の環境と歴史を守る会」が結成されたのは、昭和四十年代のことであった。
この会の機関誌として創刊された季刊「にいくらごおり」は、地域の市民の熱意によって支えられ、受け継がれてきた。
残念なことに、二十号をもって休刊されたが、郷土の良き文化を伝え、美しい自然を守るために市民の行動を促し、地域に貢献された活動は、いまも私たちに新鮮な感銘を与え続けている。
本会は、新座市を核として活動されてきたが、昔は「新座郡」の中にあった現在の朝霞市など、周辺の地域に対しても目を向け、失われてはならない貴重な資料を蒐集し、残されてきた。これまでも、また今後も、環境と歴史を大切にして取材し、考える本紙の編集において、「にいくらごおり」誌に学ぶところは少なくない。記して感謝の意を表明したい。
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