この人

根津嘉一郎
-東武鉄道をつくった財界人-

 東武鉄道の創業者として知られる根津氏は山梨県の出身、郷里山梨において土地の投資で財を成したのち、株式投資を行って甲州財閥の一人となり、東京商工会議所議員に就任、衆議院議員に当選した。東京電灯を経て東武鉄道の経営に参加したが、明治三十八年には取締役社長に就任した。
 当初北千住―久喜間に開業した東武鉄道は、明治末年に、足利、大田、桐生、伊勢崎へと延伸されたが、大正九年には、池袋―坂戸間に敷設された東上鉄道を合併、同十二年に小川町まで延伸された。
 東上線の敷設によって、根津氏はこの地域に住む人々の生活や経済に対して莫大な変革をもたらした事業家であるが、鉄道事業のほか、その他多くの会社の経営に関わり、また東上線の活性化のために、二つの遊園地の事業、成増の「兎月園(とげつえん)」と「朝霞大寺院」を展開した。
 兎月園は、貿易商であった花岡知爾氏が、一万坪以上の敷地を使ってつくった「成増農園」を、大正末から昭和初期にわたり、共同事業として根津氏が再生した高級遊園地である。料亭、日本庭園、運動場、湧水池などがあり、東京の郊外にふさわしい行楽地となり、多くの政治家、財界人も訪れた。しかし太平洋戦争の激化とともに、昭和十八年に閉園された。
 一方「朝霞大寺院」は、昭和八年、朝霞ゴルフ場に隣接する土地を買収、朝霞公園として整備し、大仏と梵鐘、それに洋の東西の公園の粋を集めた庭園を含む構想によってつくられた。本紙の二面「歴史を紐解く」の金子氏が執筆された「まぼろしの朝霞大仏」に記されたように、工事は着々と進み、昭和十一年には、根津氏の記念碑が建立され、自身が出席して除幕式が行われた。
 根津氏は文化的な事業をも行った。その一つは、豊島区豊玉上の二万五千坪(八二五○○u)の敷地に創立した、武蔵高等学校(現武蔵大学および中学校、高等学校)である。この七年制高等学校は、卒業生が無試験で帝国大学に入学できるように設定され、官学の第一高等学校(現東京大学教養学部)と並ぶ名門となった。
 根津氏は昭和十五年鬼籍の人となったが、葬儀は武蔵高等学校葬をもって行われ、各界の代表者多数が参列した(享年八十一)。

 まぼろしの大仏と梵鐘の根津パークの跡地の一部は、現在では武蔵大学のグラウンドとなり、川越街道に沿った朝霞警察署の向かいには、瀟洒(しょうしゃ)な学生寄宿舎「朝霞プラザ」が建てられている。

 以上の記事は、「東武鉄道百年史」(平成十年、東武鉄道社史編纂室編集、同社発行)を参考にして記述した。


■「東武鉄道百年史」十六ページに掲載された初代社長としての根津嘉一郎氏

 

 

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