(左右とも:江戸時代の膝折宿模型朝霞市博物館資料)
膝折の家並
話が前後したが、江戸末期頃の膝折宿の家並みを簡記すると、
本陣の東向こうに、今も姿を留めている脇本陣の高麗家(村田屋)があり、
一軒置いて左隣に「なか屋」と呼ばれた旅籠があった。
いくつ部屋があったであろう、間口の広い草葺きの大きな平屋で、
「膝折に過ぎたるものが二つある。なか屋の鴨居に○○屋の娘」と明治の人達が言っていた、
並外れの長い鴨居があったらしい。この家は昭和の戦後に取り壊された。
さらに少し下の方(膝折宿では江戸の方向を「上(カミ)」と呼び、川越方向を「下(シモ)」と呼ぶ。
天領であったためであろう)へ行くと、「かど屋」という旅籠があった。
上の坂の途中にあった「元禄地蔵」(一乗院に収む)や中宿の「火の見櫓」(写真参照)などは、
膝折宿の象徴であったといえよう。
かせぎ(稼)坂から大橋の先の榎の木までの膝折宿には、
馬を備えた家(馬方)、米屋、酒屋、豆腐屋、魚屋、八百屋、菓子屋、甘酒屋、
呉服・小間物屋(よろず屋)、傘職、屋根(草葺)屋、大工、左官、
鍛冶屋(農具・蹄鉄・たが・自在鈎などの製造、修理)、
髪結床(「かみどこ」とも言い、江戸時代には鬢(びん)・月代を剃ったり、
丁髷を結ったりした)等の家(いずれも草葺)があった。
これらを一望すれば宿場らしさが想像できよう。
明治・大正期から昭和初期頃は、
よかよか飴・飴細工・ラオ屋・万金丹売り・金魚屋・風鈴屋・一五銭屋等いろいろな物売り、紙芝居、虚無僧、正月には猿回しや獅子舞い、風折烏帽子をかむり、おどけた才蔵を伴った三河万歳もやってきた。
膝折は三方が坂で、これも昔は今よりももっと急であったらしい。
昔からいわれている坂の名に、元坂、稼ぎ坂、卵塔坂などがある。
長山の坂は地形の変化などでいわれなくなり、
いつの間にかヨリヤ(撚り屋又は縒り屋)の坂と呼ばれるようになった。
足袋屋の坂や籠屋の坂は、坂の途中に足袋屋や籠屋があったことから、
次の合同の坂と同様、巷間いつの間にやら称されるようになった。
合同の坂は、昭和五、六年頃であったか、
私が第一小学校へ通っている頃、
源四郎食堂さんの所から初雁木材さんの所へ一直線の坂道がトロッコ工事で開通したので、
後にその坂の上に合同貨物自動車会社(後に武蔵貨物と改名)が出来たことから、
地域の一部の人達からそのように呼ばれたものである。
いまはその会社はないが、それでも合同の坂といっている人が多い。
宿の中ほどに、朝霞駅へ通じる大通りがあるが、
これは鉄道が敷かれ、膝折駅(のちに朝霞駅)ができた頃に開かれた道で、
当時「停車場新道」と呼ばれ、今でも地元ではその辺りの家を「新道の何々」と呼んだりする。
膝折の鎮守の杜(産土神)の氷川神社は、川越街道から約四〇〇メートルほど南へ行ったところの、
小字「蛇久保(蛇窪)」一二四九番地等に位置する。
鳥居の前の道路を境にして小字「子ノ神」に接していて、一般に「子ノ神の氷川神社」といわれている。
神社境内の滝壷は、明治四十二年七月に大改築されたが、池と共に当神社で今最も昔の面影を残している。
往時、滔々と流れ落ちていた滝も今は水量が減り、辛うじて姿をとどめている。
かつて陸軍予科士官学校が移転してきて、 蛇久保の大半もその演習場用地にされたが、
第二次拡張で神社境内との境界に接し、
山林は根こそぎ伐採され野っ原と化したため、神社の池の湧水を損ねたと思う。
いまは自衛隊の演習場となっているが、神社の池の上方台地の或る範囲に、
常緑樹等の植樹を施さないと、何年か後には池の水は枯渇し、滝は姿を消してしまうだろう。
せめてその辺りに樹木があれば、真夏の演習時の憩いにも役立つであろう。
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