大和田通信基地(新座市)その二
歴史教育者協議会 金子 眞
大和田
気象通信所
一九四五年の終戦で海軍大和田通信所はどうなったのでしょうか。
「昭和二十年八月二十四日 海軍大和田通信所の処理について、中央気象台で海軍および陸軍との三者会談がもたれ、中央気象台に移管するという意向が固まった」という記録があります。
通信施設は逓信省(ていしんしょう)が処理し、同年十一月には中央気象台大和田臨時出張所が創設されました。
米軍大和田
通信基地
朝鮮戦争
一九五○年あの朝鮮戦争がはじまる前夜七月に通信施設の主体は米海軍に占領され、気象通信所はその片隅に追いやられ清瀬分室になりました。
朝鮮戦争が始まると米軍は「航空気象データを至急よこせ」と何度も来たと気象台の人は語っていました。
ベトナム戦争
一九六五年に米海軍から米空軍に移管され、米空軍一九五六通信グループ大和田作戦所となりました。この年はまさにベトナム戦争の始まった年です。大和田通信基地はベトナム戦争の空爆の基地と化したのです。
府中の空軍基地には在日米軍司令部があり、第五空軍司令部が置かれていました。朝霞基地には、自動データ通信交換センターという施設がありました。この朝霞基地は、米国下院サイミントン委員会の資料によると「たとえ日本の基地が閉鎖されるときがあっても、対流圏散乱通信所の用地は、なんとしても確保せねばならない」とあります。
大和田通信基地や朝霞基地はこのような位置づけのもとに置かれていたのです。
横田通信
ネットワーク
一九八二年度の米軍基地計画によると「大和田通信基地(受信)所沢通信基地(送信)と横田基地を結ぶ米戦略空軍(S・A・C)の指揮、管制の通信網を最新のものにする」とあります。
米軍大和田通信基地の広さは、六万坪と電波障害制限区域三十四万坪、計四十万坪におよぶものです。制限区域は新座市や清瀬市の農家六十六軒の人が畑作農業をしています。
もらい電気
一九六六年の毎日新聞の記事には「もらい電気」という見出しで、米軍が接収後建てた家は電気が引けず、接収以前から電灯線の入っている家から電気を引こうとしたが「電波障害になる」といって引けず、地下ケーブルで引こうとしたが許可にならず、「もぐり電気」「もらい電気」でくらしているというのです。六七年にやっと配電されるようになりました。
また、制限区域内にある西堀小学校は教室不足から二階の校舎に改築したいができず、一九六九年には制限区域外に建設用地を確保して開校することができました。
今日、北朝鮮の問題が毎日のように報道されている中で、米軍大和田通信基地はどのような位置にあるのか大きな問題があると思います。私達の地域がこんなにも世界とつながっていることなのです。
※参考(歴史地理教育一五一号)(にいくらごおり十六号)
工事中のメインゲート
米軍が使用中の建物
もう一つのゲート
地図 東京防衛施設局が掲示している地図に現況を書き加えたもの
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