まぼろしの朝霞大仏と梵鐘
-朝霞基地の歴史-
(聞き手・安斎 達雄)
プロローグ:昭和の地域開発
昭和十一年(一九三六)に出版された「大東京史蹟名勝地誌」の公園と風致地の項に「大泉風致区」という記事があります。
「東京市北西隅、板橋区にある。面積百萬坪餘、八風致区中第二の広さを有する、大泉学園が本地区の大部分を占め、雑木林、赤松林、薄の原等相交錯し、武蔵野の面影の最もよくあらわれた地である。この広い土地は、風致区としての設備が思いのまま講ぜられることであろう、現に東京市は市民農園を設け、その利用は益々盛んになって来た。北に接して朝霞ゴルフ場あり、又朝霞公園も計画されている」と記されています。
この朝霞公園は根津公園と呼ばれ、「奈良と同じ大仏」を建立する大公園だったのです。
今の朝霞の第四小学校の裏山は、武蔵大学のグラウンドになり、昔のすがたは残ってはいませんが、日米演習場だった頃は、膝折の方から谷が入りこんで、小さな流れをつくりその奥の方には、湧水をともなった池がありました。
ここは、アメリカ軍が占領したときは、根津パークと呼ばれ、関係文書にもこの名が記されています。
膝折に住む大畑さんの話によると、「根津公園」という大きな碑が建っていて、子供のとき、その碑に刻まれた碑文に足をかけて、石碑をよじのぼって遊んだそうです。
この根津公園は、朝霞第四小・朝霞高校を含む南側の一帯で、その広さは五万坪あり、朝高は一万坪ですから、巨大なものです。
昭和七年(一九三二)五月一日の新聞を見ると「ゴルフの町に新生する朝霞、ほがらかに今日の第一声、町になる喜び、北足立郡膝折村は、東京ゴルフ倶楽部のゴルフ場開設」とあり、この日膝折村から朝霞町に生まれ変わったと記されています。
朝霞の地名は、このゴルフ倶楽部の会長の朝香の宮にちなんだと云われています。
当時、西武線は武蔵野線と呼ばれ、大泉駅から、学園都市、文化住宅、市民農園と、東京周辺の地域開発が始まりました。昭和のはじめすでに東京の人たちは、自然と緑を求めてこの地にやって来て住みはじめ、武蔵野の雑木林を切り開いてゴルフ場や遊園地をつくっていきました。
一方東京―上州鉄道は東上線といわれ、やがて東武鉄道の東上線にかわり、昭和のはじめには、根津公園の計画が始まり、朝霞駅からの地域開発にのりだして、新倉駅(和光)もつくられました。
この両方の開発のぶつかるところが、川越街道をこした所の一帯の地、今の自衛隊東部方面隊の基地と自衛隊演習場がある所です。
ここに、大泉からのゴルフ場、朝霞からの根津公園が出来たら、東京から電車で三十分、ゴルフ場二十二万坪と根津公園を合わせて、東京の行楽地になったでしょう。
一:地域開発以前
昭和のはじめ、この地域開発がはじまる前は、川越街道から大泉までは雑木林と野原で、所々に畑のある「武蔵野」そのものでした。江戸時代も、明治も、大正も、農民はこの山に、冬になると「くずはき」にいきました。落ち葉を熊手で掃き集め、大かごに入れ手車に積んで帰り、来る日も来る日も山を掃きました。「くずっぱ」は大事な肥料です。庭にうず高く積んで水をかけ、腐らせ「つくて」と呼ばれる積肥をつくります。これに灰をまぜ、鳥の糞をまぜ、なぎなたで切ってこまかくし、畑の土に入れて、麦やさつまや、おかぼをつくりました。
また、山の下草や枯れ木や落葉は、「いろり」や「ひっつい」とよばれる「かまど」の燃料になり、それで麦飯をたき、みそ汁をにて、暖をとって生活していました。
ここで燃やした灰はまた、肥料に使い、この雑木林あっての畑でした。この山が昭和のはじめから失われはじめたのです。
二:大仏建立
膝折の宿場町を流れる水の「出元」は、根津公園の中央にある池でした。今この流れは武蔵大学のグラウンドで埋めてしまいましたが、きれいな水がとうとうと流れていました。
この池を背に、大仏建立が計画されたのは昭和八年です。
朝霞第四小学校と武蔵大学の間の道をまっすぐ入った突き当たりが、大仏建立の場所でした。ですからこの道にはまだ大きな桜の並木が残っていて参道のおもかげがあります。
大仏建立は、今の第四小学校の奥の基地の中にあたり、松林の中です。
その大仏は、根津嘉一郎(ねず・かいちろう)氏の計画したもので、その構想は巨大なもので、今でも膝折の人々に語りつがれています。
彫刻家内藤伸氏により原型がつくられました。昭和十一年には松田尚之氏により原型模型が完成しました(東京日日新聞)。
奈良の大仏は、高さ十六m、台座の直径は二十mという大きなものですが、これよりひとまわり小さい大仏で、しかも露座の大仏で、コンクリートでつくると云うのです。
実際に工事がはじまり、まず大仏の基礎工事として土の中にコンクリートが打ち込まれました。
現場には高さ二十mの鉄骨づくりの建物が建設され、高さ十四mの大仏の原型がつくられました(東京日日)。
昭和のはじめ、ビルを建てるような足場が突然膝折の坂の上にそびえ立ったのですから町の人々はただ、ただ驚くばかりでした。
いよいよ、外型と呼ばれる石膏の型がつくられようとしました。
大仏の座したまわりには蓮弁(れんべん)があります。この蓮弁は、一枚一枚銅で鋳造されました。
三:大梵鐘
奈良の大仏殿の前には、高さ四.六mの八角燈籠(はっかく・とうろう)がありますが、これより大きいものをと、朝霞の大仏の燈籠は、その大きさ東洋一というものがつくられました。
お寺には梵鐘がつきものです。日本一、東洋一の梵鐘を作ろうと、京都から梵鐘鋳造の専門家高橋才次郎氏が、朝霞にやって来て家をつくり、そこに住み、鋳造にとりかかりました。赤土に大きな穴を掘り、その中で鋳造したのだそうです。
その後、梵鐘は出来上がりましたが、何しろ東洋一なので、鐘楼も東洋一なのをつくらねばなりません。
梵鐘は、大穴の上に丸太をわたして、その上に置いてありました。近所の子供たちは、よくその梵鐘の穴に入っておにごっこをして遊んだそうです。梵鐘についている凸凹に足をかけて登ったり下りたりもしました。
ある時、一度だけこの鐘をついてみることになりました。町中の人が集まって来ました。その音は、武蔵の原にしみわたるような、すばらしい音でした。
この鋳造師は、梵鐘のあと大燈籠、蓮弁などつぎつぎにつくり、また、大仏のまわりにおく数多くの仏像も鋳造しました。
雑木林と萱野(かやの)の続く原に、人々が毎日のようにおがめる大仏が出来るのです。そして多くの人々がこの朝霞の地を訪れて、まさに、朝霞駅からこの大仏までは、門前町になる。町の人々の心は大きくふくらんでいきました。
四:戦争
ところが、昭和十三年(一九三八)国家総動員法が国会を通り、十五年には国防国家体制が確立し、有事のときは、「一旦緩急あれば」と、新体制運動、大政翼賛会、そして国民精神総動員体制が、国家のもとになされました。
昭和十六年(一九四一)第二次世界大戦がはじまり、国民は困難な道をたどりました。
農民は男を戦争にとられ、田畑は女・老人子どもの仕事になりました。都会では、食糧不足、衣料不足、住宅は焼かれ、人々は窮乏のどん底におちいりました。
あの巨大な、大仏の型は叩きくずされて、がれきの山となりました。いつのまにか、あの空にそびえるやぐらも姿を消してしまいました。
東洋一とうたわれた鐘は、しばらく穴の上に丸太をわたして置いてあったのですが、国は、戦争に使う大砲や鉄砲の玉にしようとしました。膝折の人々は驚きましたが、梵鐘を三つに叩きわって供出しました。日本一と云われる燈籠は、今は多摩霊園にあるそうです。 基地の中に、コンクリートの土台が残っていましたが、今はそれもなくなりました。奈良の大仏と同じような蓮台もその一枚一枚は巨大なものです。この蓮台は戦争後も朝霞に置いてありましたが、やがて、高橋さんがこなごなに叩きわって持ち帰ったそうです。
こうして、朝霞の大仏は「まぼろしの大仏」となりました。
昭和十六年十月、それ以前に都内にあった予科士官学校が朝霞にやって来ました。今の川越街道の南がわ大泉まで、東京ゴルフ場を含んで、その広さは、二四二万u、八十万坪におよびました。そしてこの大仏のあった、根津公園を含む一○○万u、三十万坪は、士官学校の演習場になり、大きな射撃の山がつくられました。人々は、ここを射撃場と呼んでいます。
大仏開眼もつゆと消え、朝霞は軍隊の町になってしまいました。
あのいまわしい戦争にまきこまれた町としてやがて悲しい歩みをつづけ、戦後三十年たっても、いまだ、その悲しみを背負いつづけているのです。
本文は、二十年以上前に、季刊「にいくらごおり」(本誌十三号二面参照)「新座の環境と歴史を守る会」の機関誌第十四号、三十五ページ(一九八○)に寄稿したものの一部を再録したものです。
その後、朝霞市史編纂室で調査を行なわれましたので、朝霞市史を参考にして一部書き直しました。
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