|
宮戸 長屋門のある家 史跡めぐりなどをしていると、時たま長屋門に出くわすことがある。長い家の中央に門をつけたような形をしている。 門は、本来武家屋敷につけるもので、農村では村役人だけが許された。朝霞市の宮戸地区で長屋門を持つ高橋精二氏(屋号は西ヶ谷戸=にしがいと)も、先祖が江戸時代に宮戸村の名主(なぬし。村長のような役)を務めた家である。門につながる両側の建物が使用人の部屋となっている例もあるが、氏が知る限りでは物置として使われていた。 ところで、宮戸を歩いていて少々驚くのは、旧家らしい家の多くは高橋姓であることだ。だから、高橋家が登場する際は、何らかの注釈をつけなければわからない。言い伝えによると、宮戸は、最初に入り込んだ六人の武者によってつくられた村であるという。その六人の子孫としての伝承を残す古い家は、現在では長屋門をもつ高橋家と、別系統の高橋家の二家だけだという。 昔の住まいを決めるポイントは水が得られることであったろう。この辺では、相当深く掘らないと水がでなかったため、井戸はきわめて少なかった。だから、人々は水の便のよい低い土地に住んだ。長屋門の高橋家の裏は現在でもやや低地となっているが、昭和の初めごろには深い谷のようになっていて、高橋さんが生まれる前のことだが、かつては新河岸川の分水が流れ込んでいたという。また、谷を埋めてしまうまで裏には一つだけ井戸があり、水がこんこんと湧いていたという
高橋家と宮戸で一番古い寺である宝蔵寺とは、目と鼻の先と言ってよいほど近い距離にある。 宮戸神社の変遷 宝蔵寺から新河岸川にかかる宮戸橋にむかって坂を下る。この坂は昭和十年に土盛りをして、なだらかな坂につくり変えられたもので、かつてはかなり急な坂であった。その坂の右手高台には宮戸神社がある。 宮戸河岸の舟運 宮戸神社前の坂の下は新河岸川で、宮戸橋を通じて志木市の宗岡地区とつながっている。もっとも、ここに最初の木橋が架けられたのは昭和の初期ごろで、現在の橋が出来たのは昭和三十五年(一九六〇)のことである。昭和初期の河川改修以前、今の宮戸橋辺りで川は右岸(朝霞市側)に食い込むように曲がっていた。現在の地形でいえば、「みつばすみれ学園」の後ろに川が入り込んでいたということになろう。河川改修後、川はほぼ真っ直ぐに付け替えられて「みつばすみれ学園」の前を通るようになった。しかし、市の境界は河川改修以前のままだから、ここは朝霞市に囲まれて志木市下宗岡一丁目となっている。 水車と野火止用水 昭和初期の河川改修後、新河岸川はほぼ真っ直ぐに付け替えられた。しかし、右岸に大きく食い込んだ旧河川は、水をたたえた古川として長い間そのまま残っていた。その古川のほとり、河岸問屋の高橋家があった近くに、水車で米や麦をつく「くるまや」の高橋家があった。水車を廻す水は野火止用水の水である。 歴史を主張するもの 長屋門の高橋家の南側は一面の畑地で、朝霞浄水場の土地もすべて畑だった。こどものころ、畑がひろがる一帯は宮戸っ原(みやどっぱら)と呼ばれ、秋十月頃になると陸軍の大演習が行われていた。これは毎年のことで、兵士は畑のなかをぽんぽんと走りまわり、夜にはここらの農家にとまった。とにかく、ここから現在の朝霞台駅あたりまでは一面の畑が広がり、家は一軒も見えなかったほどだ。 そうした中で、長屋門はひときわ目立っていたにちがいない。この門は十八世紀中頃の宝暦年間につくられたもので、明治五年(一八七二)に草葺屋根から瓦葺きに直した。平成八年、土台が腐っているというので、長屋門を壊す案もでたが、せっかくあるのだから残したほうがよいということになった。瓦といっても昔は土瓦で、大変な重さが屋根にかかっていた。それで、土瓦はやめて、今風の普通の屋根瓦に変えた。そのとき古い瓦を見ると「宗平」という字がはいっていた。宮戸橋の先に昔瓦屋さんだった家があるので、そこを尋ねてみると、確かに明治の幾年かまで瓦つくりをしていたという。おそらく「宗岡」の「宗」にお祖父さんの名にあった「平」の字をつかったものだろう、という話になった。 この高橋家は歴史があるわりには古いものはないという。関東大震災のさいに蔵が壊れ、その時ついでに古いものを処分してしまったからだという。しかし、今に残る長屋門は、宮戸の歴史を主張しつづけているように思える。 (本稿は、高橋精二氏にうかがった話をもとに、構成させていただきました。)
|