宮戸
-朝霞基地の歴史-
(聞き手・安斎 達雄)

長屋門のある家

 史跡めぐりなどをしていると、時たま長屋門に出くわすことがある。長い家の中央に門をつけたような形をしている。

 門は、本来武家屋敷につけるもので、農村では村役人だけが許された。朝霞市の宮戸地区で長屋門を持つ高橋精二氏(屋号は西ヶ谷戸=にしがいと)も、先祖が江戸時代に宮戸村の名主(なぬし。村長のような役)を務めた家である。門につながる両側の建物が使用人の部屋となっている例もあるが、氏が知る限りでは物置として使われていた。

 ところで、宮戸を歩いていて少々驚くのは、旧家らしい家の多くは高橋姓であることだ。だから、高橋家が登場する際は、何らかの注釈をつけなければわからない。言い伝えによると、宮戸は、最初に入り込んだ六人の武者によってつくられた村であるという。その六人の子孫としての伝承を残す古い家は、現在では長屋門をもつ高橋家と、別系統の高橋家の二家だけだという。

 昔の住まいを決めるポイントは水が得られることであったろう。この辺では、相当深く掘らないと水がでなかったため、井戸はきわめて少なかった。だから、人々は水の便のよい低い土地に住んだ。長屋門の高橋家の裏は現在でもやや低地となっているが、昭和の初めごろには深い谷のようになっていて、高橋さんが生まれる前のことだが、かつては新河岸川の分水が流れ込んでいたという。また、谷を埋めてしまうまで裏には一つだけ井戸があり、水がこんこんと湧いていたという


 
宝蔵寺と薬師堂

 高橋家と宮戸で一番古い寺である宝蔵寺とは、目と鼻の先と言ってよいほど近い距離にある。
 最初に宮戸に来た六人は、新河岸川近くの志木よりにある薬師堂山にお薬師さんを祀って、守り本尊とした。ここ薬師堂山からは、平安時代の経筒(きょうとう/お経を入れて埋めるための筒。県指定文化財)などが発見されている。おそらく住民が増えてきたり、薬師さんを祀る小堂が傷んだりしたため、今の宝蔵寺(当初は法蔵寺と書いた)の位置にお寺を移したものと思われる。宝蔵寺の付近の畑地や墓地から、十二〜十四世紀の多数の板碑(供養碑)が出土していることもあり、すでに鎌倉時代から室町時代には、現在の地には寺院があったものと考えられる。
 宝蔵寺境内にある薬師堂は慶長十三年(一六〇八)に創建されたが、のち火災で焼失した。現存する薬師堂は宝暦五年(一七五五)に再建され、その後修理を繰り返してきたものである。中におさめられている薬師如来は、弘法大師がつくったという伝承があり、今でも秘仏とされている。また、本堂は天和二年(一六八二)に建てられ、昭和三十七年(一九六二)に改築されて現在におよんでいる。かつての薬師堂山は、すっかり住宅地となっている。

宮戸神社の変遷

 宝蔵寺から新河岸川にかかる宮戸橋にむかって坂を下る。この坂は昭和十年に土盛りをして、なだらかな坂につくり変えられたもので、かつてはかなり急な坂であった。その坂の右手高台には宮戸神社がある。
 この神社が宮戸神社という名をもつようになったのは、昭和十八年(一九四三)のことだ。いつごろからこの地に神社があったのかは、はっきりしていないが、江戸時代に書かれた諸本によれば、この地に「熊野神社」があったことは確かだ。
 しかし明治になると、小さな神社は経済的に立ち行かなくなると判断した政府は、神社の合併、つまり合祀(ごうし)・整理運動を展開した。これによって明治四十年(一九〇七)、宮戸地区の熊野神社は、田島地区の神明神社とともに浜崎地区の氷川神社に合祀され、三柱(みはしら)神社と称されるようになる。
 いくら政府の方針とはいえ、やはり宮戸地区にも神社はほしい。そこで、昭和十七年(一九四二)宗岡村字袋にあった天津神社を、さらに翌昭和十八年には宗岡村字下ノ谷(したのや)にあった稲荷神社を宮戸の熊野神社のあった地に移し、宮戸神社と名づけてしまった。神社の復活である。そして昭和三十一年(一九五六)には、浜崎の氷川神社の地に合祀されていた熊野神社をも元の地に連れ戻し、宮戸神社に組み入れてしまった。
 宗岡村の字袋も字下の谷も、現在の志木市上宗岡の新河岸川べりの地である。宗岡村は隣村で同じ通婚圏でもあり、行き来も日常的であったから、その神社に対しても身内のような親近感を持っていたのかも知れない。

宮戸河岸の舟運

 宮戸神社前の坂の下は新河岸川で、宮戸橋を通じて志木市の宗岡地区とつながっている。もっとも、ここに最初の木橋が架けられたのは昭和の初期ごろで、現在の橋が出来たのは昭和三十五年(一九六〇)のことである。昭和初期の河川改修以前、今の宮戸橋辺りで川は右岸(朝霞市側)に食い込むように曲がっていた。現在の地形でいえば、「みつばすみれ学園」の後ろに川が入り込んでいたということになろう。河川改修後、川はほぼ真っ直ぐに付け替えられて「みつばすみれ学園」の前を通るようになった。しかし、市の境界は河川改修以前のままだから、ここは朝霞市に囲まれて志木市下宗岡一丁目となっている。
 その辺りが宮戸河岸で、明治八年(一八七五)から舟運にあたっていた河岸問屋の高橋家があった。しかし、持ち舟がなかったので、志木河岸(かつての引又河岸)の井下田回漕店の船に運送を依頼していたという。新河岸川の舟運は、河川改修後の昭和六年(一九三一)に禁止された。しかし、昭和三十年(一九五五)ころまでは下肥の船は通っていた。
 かつて、宮戸河岸の河岸場は村営で運営されていたという。それが安永三年(一七七四)になって幕府によって公認された。このとき、西ヶ谷戸の高橋家の分家にあたる源五郎氏の次男高橋又五郎さんが土地約九反(約八九二〇u)を宮戸村に差し出し、河岸場の運営を引き受けることになったという。

水車と野火止用水

 昭和初期の河川改修後、新河岸川はほぼ真っ直ぐに付け替えられた。しかし、右岸に大きく食い込んだ旧河川は、水をたたえた古川として長い間そのまま残っていた。その古川のほとり、河岸問屋の高橋家があった近くに、水車で米や麦をつく「くるまや」の高橋家があった。水車を廻す水は野火止用水の水である。
 野火止用水の本流は、現在の志木市の市場通りから新河岸川に向かって流れていたが、いくつかの分流がある。その一つは慶応志木高校の敷地内を通って北流し、栄橋(志木市)と宮戸橋の間で新河岸川近くまでくると二つに分かれ、一つはそのまま新河岸川にながれた。しかし、もう一つの流れは方向を東にかえてトンネルを通り、星野家の「よりや」と呼ばれていた撚り糸用の水車を回した。ついで絵馬がたくさんあることで知られている天明稲荷神社(大正七年=一九一八創建)の北側台地下を、川と並行するように宮戸橋方向に流れ、そして「くるまや」の高橋家の水車に達していた。
 宮戸の水車では、田んぼで水を必要としない時期だけ水車を動かしていた。野火止用水はこの先、内間木農協あたりまで流れ、周辺の田を潤していた。その枝の流れは、浜崎・田島の方まで流れていた。野火止用水が宮戸周辺の水田開発に貢献した事実は、もっと強調されるべきだろう。終戦から十年近くは、この水を使って米づくりが行われていたが、いつしか野火止用水堀も埋められてしまった。

歴史を主張するもの

 長屋門の高橋家の南側は一面の畑地で、朝霞浄水場の土地もすべて畑だった。こどものころ、畑がひろがる一帯は宮戸っ原(みやどっぱら)と呼ばれ、秋十月頃になると陸軍の大演習が行われていた。これは毎年のことで、兵士は畑のなかをぽんぽんと走りまわり、夜にはここらの農家にとまった。とにかく、ここから現在の朝霞台駅あたりまでは一面の畑が広がり、家は一軒も見えなかったほどだ。

 そうした中で、長屋門はひときわ目立っていたにちがいない。この門は十八世紀中頃の宝暦年間につくられたもので、明治五年(一八七二)に草葺屋根から瓦葺きに直した。平成八年、土台が腐っているというので、長屋門を壊す案もでたが、せっかくあるのだから残したほうがよいということになった。瓦といっても昔は土瓦で、大変な重さが屋根にかかっていた。それで、土瓦はやめて、今風の普通の屋根瓦に変えた。そのとき古い瓦を見ると「宗平」という字がはいっていた。宮戸橋の先に昔瓦屋さんだった家があるので、そこを尋ねてみると、確かに明治の幾年かまで瓦つくりをしていたという。おそらく「宗岡」の「宗」にお祖父さんの名にあった「平」の字をつかったものだろう、という話になった。

 この高橋家は歴史があるわりには古いものはないという。関東大震災のさいに蔵が壊れ、その時ついでに古いものを処分してしまったからだという。しかし、今に残る長屋門は、宮戸の歴史を主張しつづけているように思える。

 (本稿は、高橋精二氏にうかがった話をもとに、構成させていただきました。)


続く

 

戻る