「浦和新倉道」と「にいくら駅」
(聞き手・安斎 達雄)
地域の活性化や生き残りをかけた工夫と闘いは、いつの時代にも必要なことだったのだろう。かつて和光市域の西側を占めていた新倉村でも、大正から昭和にかけて、道路拡張整備を核にそえて、地域の近代化に心血をそそいだ人物がいた。
「道路村長さん」
―これが住民からあたえられた愛称である。
実現しなかった停車場
大正三(一九一四)年五月一日、池袋―田面沢(たもざわ。現川越市駅と霞ヶ関駅の間の地、大正五年廃止)間三三・五キロの東上鉄道(のちの東武東上線)が開通した。線路施設地となった白子村・新倉村でも用地買収などに協力したが、残念ながら、このときは和光市域に停車場は置かれなかった。
市域の人たちは、東京方面に行くときは成増まで歩き、川越方面に出かけるときは膝折駅まで歩いて東上線を利用した。当時、周囲は畑や林ばかりで、日が暮れれば駅までの道は提灯(ちょうちん)をつけなければならない。男でも駅までの一人歩きは気味がわるかったという。
そうは言っても、東上線が通る以前、東京に行くには、市域北東端の芝宮河岸まで出て、渡し舟で荒川をこえ、そこから蕨(わらび)駅(明治二十六=一八九三年開設)に出て列車に乗らなければならなかった。それにくらべたら大変便利になったと、駅は置かれなかったものの、東上線開通は好感をもって迎えられたようだ。
ちなみに、この時の停車場は、池袋から下板橋・成増・膝折(ひざおり。現朝霞駅)・志木・鶴瀬・上福岡・川越町(六軒町。現川越市駅)を過ぎて田面沢までである。一か月遅れで上板橋と新河岸(高階)が開業した。単線で、ほぼ二時間に一本の間隔で運行され、池袋・田面沢間をおよそ一時間十五分で結んだ。
せつねエ坂道
鉄道の開通に象徴されるように、時代は近代化に向かって進む。その根幹をなすものとして、道路整備があげられる。自然の道は、どこでも坂の上り下りが激しい。とくに、南に台地をもち、北に荒川流域の低地をもつ和光市域は、坂道が多い。東京との出入り口である白子坂でも改修工事が急がれたが、新倉でもいくつかの土木工事が開始された。なかでも力が注がれたのは「浦和新倉道」の拡張整備である。
「浦和新倉道」とは、南を通る川越街道(もちろん旧道)と北の荒川を結ぶ道路である。道路の呼び名は後世のものだが、道は江戸時代からあったもので、村の南北基幹道路として利用されていた。だがこの道は、はば二間(三・六メートル)のせまい砂利道で、しかも険しい坂道が多かった。
当時、市域では東京へ向けての農産物生産が活発化していた。すでに明治時代から、新倉は隣村の白子とともに甘藷(かんしょ)栽培地として名高く、これに大正時代から本格化した牛蒡(ごぼう)栽培で名をはせていた。和光市域の「新倉牛蒡」「新倉藷(いも)」それに「白子人参(にんじん)」は、生産地の名を冠した作物として、その名をひろく知られていたのである。
こうした農作物を大八車やリヤカーにのせ、アップダウンのはげしい「浦和新倉道」を通ることは、かなり体力のいる仕事であり、地元のことばによれば「せつねエ」(切ない、苦しい)こと、この上もなかったようだ。
道路村長さんの活躍
「浦和新倉道」は、川越街道から大野前の荒川流域まで、およそ二八四〇メートルにおよぶ道である。この幅三・六メートルの道を十五メートルにひろげる。それだけでなく、険しい山坂を削ったり土盛りしたりして、出きるだけ使いやすくなだらかな道にしなければならない。難工事の上、県からの補助金も少なく、地権者の理解も得にくい部分もあった。こうしたなかで、道路拡張整備工事は、大正七(一九一八)年八月から昭和七(一九三二)年十一月まで、三期に分けて開始された。
この工事の中心となったのは、当時の新倉村長、鈴木左内であった。鈴木家は江戸時代以前からつづく家で、江戸時代末期に幕府が編集した『新編武蔵風土記稿』にも旧家として記載されている。左内はその十三代目の当主で、明治二十八(一八九五)年に村議会の推薦によって村長に推薦された。時に数え年二十三歳。以後、昭和十四(一九三九)年まで十一期、四十四年にわたって村長を務めたという。
当時の村長は選挙によるものではなく、村議会の推薦によるものであった。制度は現在と異なるとはいえ、当時としても驚くべきことだろう。
鈴木左内は、村長として農事改良の先頭にたったが、出来た作物の販路拡大を常に考えていたのだろう。それが道路拡張工事への執念となってあらわれ、「道路村長さん」という愛称で呼ばれるようになった。新倉氷川八幡神社境内の正面向かって右側には、この時の記録が三期に分けて記された記念碑が残されている。
にいくら駅の開業
道路村長は「浦和新倉道」について、たんに整備拡充工事の完成だけで終わりと考えていたわけではない。新倉は、荒川によって県庁のある浦和とは引き裂かれている。だから、浦和新倉道とつながる荒川に、是非とも橋をかけたいとの強い構想があったようだ。この構想は、同じプランで実現されることはなかった。
しかし、東上線を停車させる駅をつくりたいとの構想は、昭和九(一九三四)年二月一日に実現された。東上線の開通から十五年後のことである。駅名は「にいくら」。駅舎は、「浦和新倉道」が東上線の線路と交差する位置につくられた。現在の「和光市駅」のすぐ朝霞寄りにあるガード近辺がその位置にあたる。駅名はその後「新倉」、「大和町」、「和光市」と変えられた。駅舎は地下鉄新木場線の乗り入れ時にやや東寄り(成増寄り)に移動された。
現在の和光市駅の「駅前通り」は、かつての「浦和新倉道」の一部である。「道路村長さん」鈴木左内は、現在の和光市駅周辺の繁栄を予想できたのだろうか。
浦和新倉道を歩く
東上線の和光市駅を降りたら、線路沿いに西より(朝霞より)にほんの少し行くとガードにでる。このガード下で線路を横切る道が浦和新倉道である。この道をにぎやかな南方向に行くと旧川越街道(県道一〇九号線)にでる。「浦和新倉道」の出発点はここからだ。
この道を東上線のガード方向(北)に戻り、ガードをくぐり、道なりにすすむと、やがて地下を通る東京外環自動車道の上にでる。そのまま外環道にそって手前を左に進み、つぎの道で外環道をこえて直進する。外環道の地上フェンスがなければ、ほぼ真っすぐの道である。この道が浦和新倉道のつづきの道であり、坂を部分的に上ったり下ったりしながらも、基本的には台地から低地に向かって下りていく。
台地から低地にかわる傾斜面には、たくさんの湧水があったにちがいない。いま渡ってきた信号の後方には「柿ノ木坂湧水公園」があり、その面影の一端をしのぶことができる。
すぐ先の左側に「柿ノ木坂児童公園」がある。この公園の中をおりていくと、道をトンネルで横断して谷中(やなか)川が流れている。谷中川が台地を侵食し、深い河谷底をつくっていることが、周囲の風景からも見てとれる。この辺りは大変な難工事であったという。
そのすぐ先、左奥には東林寺がある。一般には「峯の薬師」とよばれる。さまざまな病気、とくに眼病に効験があるという。境内の宮殿型石造物には奉納者として牛の講中(こうちゅう/信心するグループのこと)が建てた碑という文字が彫られている。この坂道を、牛を引いて荷物輸送にあたった人たちがいたことを想像させる。
道は、新倉小学校を右手に見ながら下がり、坂下にいたる。坂道はこの辺りでおわり、あとは平らな低地がつづく。周囲は畑で、その中に廃材業、輸送業、鉄鋼業などの建物が気ままな感じでたちならぶ。さらに進んで大野前通りにはいると、道は真っ直ぐに新河岸川にぶつかる。ここが「浦和新倉道」の終着点である。
もっとも、その昔、新河岸川はやや上流の今の朝霞市と和光市のあいだ近くから荒川に合流していた。だから江戸・明治時代、道は荒川にぶつかっていた。現在のように新河岸川が荒川とほぼ並行して岩淵(東京都北区)まで流れるようになったのは、水害予防のため、大正一〇(一九二一)年から昭和五(一九三〇)年までに行われた、河川改修工事以降のことである。
この道を歩いていると、人々が鋭意つくりあげた現代という時代の透き間から、土地と融合して残る歴史が顔を出してくる。時代を変えようと努力した先人たちの努力の結晶を享受しつつ、新しいまちづくりを考えるヒントをあたえてくれそうだ。
(本稿は、鈴木左内の孫の代にあたる鈴木勲二氏からうかがった話をもとに、構成させていただきました。)
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