歴史を紐解く

大和田通信基地 その一
日本海軍の大和田通信隊
歴史教育者協議会 金子 眞

九十本の黒い柱

 一九四三年の春、私は大和田小学校高等科(新座市)に入学しました。農業実習で西堀地区の畑にさつまいもの苗を植えに行きました。
 平林寺の雑木林を抜けると広い畑の中に、林のように木の黒い柱が立ち並び、柱と柱の間はアンテナが四方八方に張りめぐらされ、ガラスの器具が風に揺られて光っていました。
 これが日本海軍の大和田通信隊の基地だったのです。海のない埼玉県に海軍の基地があるのにびっくりしました。

太平洋戦争の通信基地

 一九三七年日中戦争が始まった年にアジア太平洋地域の受信専用の基地として大和田町(新座市)西堀に工事が始まり、一九四一年、太平洋戦争が始まる年に完成しています。その広さは現在とはほぼ変らず三〇万坪といわれていました。
 中央の中心施設と官舎の部分は六万坪あり、当時四戸の農家は坪一円の補助金で立ちのいたといわれています。

 施設には、大型受信機二十三台、小型が二百台設置されていました。九十本の黒い柱には、ハワイ、シンガポール、マニラ、グァム、台北、沖縄など木札が張られていたのをみると、アジア、太平洋地域の日本軍の電波はもちろんのこと米、英の無線も傍受していたものと思われます。
 昭和二十年の六月の傍受月報(防衛研修図書館蔵)によると、この基地に三十一名の士官と三百五十三名の兵隊が働いていたと記載されています。
 また「グァムの周波数変更」「日本本土への空襲に対する援護機の周波数」などの記録があります。
 
 一九四五年九月三十日の日付の入った占領軍(第一騎兵師団)施設引渡目録というのがありますが、大和田通信隊の目録は、他の通信隊のものとは違い、横書きで、日本語と英語の二つの表記になっています。当時英語は敵国語で、使用することは禁止されていたのに、ここ大和田通信隊では、英語情報を傍受し、解読していたことがわかります。

 ではどうしてこの大和田に通信基地をつくったのでしょうか。それは第一に武蔵野台地の中心にあたり、日本では稀にみる通信上で気象状態が安定しているところ、第二は平林寺を中心に大森林地帯で、道路も少なく東上線、西武線からも離れ、電波障害が少ないこと。第三に、畑が広がり農家が点在するだけで、住宅が少なく、電波障害がない地域であるなどの理由を挙げることができます。

 一九四一年十二月八日、真珠湾からの暗号電報「トラ・トラ・トラ」を傍受したのもこの大和田通信隊とか、「ポツダム宣言」の受信もこの通信隊だと伝えられています。

 今では見ることもできない九十本の黒い柱が、日本の歴史の上で重要な基地であったことを記録にとどめました。
(金子さんは新座市在住)

参考資料:「埼玉と戦争」埼玉歴史教育者協議会

次回は、終戦後に気象通信所になり、さらに米軍の通信基地となった経緯について書きます。


大和田通信所はいま…


写真1:
区域を示す東京防衛施設局の標識

写真2:
出入り口は閉まったまま

写真3:
富士見新道から遠くの森を望む。
高い鉄塔が見え隠れする

写真4:
陣屋通りから樹林と通信塔を望む

 大和田通信所は、防衛庁、防衛施設庁のもとに置かれている。直接管理に当たっているのは東京防衛施設局である。
 施設の区域を示すブリキ板の標識(写真1)が、フェンスに取り付けられているが、その標示によると、新座市西堀三丁目、本多二丁目をすっぽり包んだ地域で、一部は都内清瀬市にも跨がる広大な緑地である。

 新座市野火止、平林寺の山林の南東に位置しており、東西に走る陣屋通りと、水道道路との間を占めている。「富士見新道」が通信所区域の中央を南北に走り、その東側には市営総合運動公園、本多緑道と野火止用水路の一部が含まれている。

 富士見新道を北に向かって左側は、すべてフェンスで区切られ、その中程にゲートがあるが、普段は施錠されたままだ(写真2)。奥には、米軍が使用中とみられるいくつかの建物が垣間見られるが、人気は無い。遠くの森の奥に、高い鉄塔が見え隠れする(写真3)。

 陣屋通りに面して、一列並びの民家があるが、記者が訪れた日は旧盆の入りで、提灯を下げた家族が、揃ってお墓参りに向かう光景が見られた。蝉時雨が聞こえる。民家の裏はフェンスに囲まれ、武蔵野の原型とも言える樹林が連なっている。たった一つ残された鉄塔がその間に見える(写真4)。

 かつては畑の中に九十本の木の柱が立ち並び、柱の高さは、六メートルもあって、それを支えるために、千八百本もの鋼線が畑に張りめぐらされていた。柱と柱との間にはアンテナが張られていて、雨のしずくや、鉄さびのため、野菜もつくることができなかったというが、これを偲ぶことは難しい。

 通信基地内には、海軍将校の官舎が何軒も立ち並び、家族と共に住んでいた。また周辺の民家に下宿していた士官もいた。当時は重要な任務を帯びた基地だった。
 敗戦によって、ここ通信隊の毛布が近くの家に配給されたが、その毛布は素晴らしいもので、おそらく今日でも最高級品に違いない。この毛布を一つを取っても、この基地には高級将校が集まっていたことが分かる。

 もはやあの林立する柱も、アンテナも、官舎もその姿を見ることができない。   
 終戦から半世紀あまりが過ぎたが、大和田通信所の大地は緑に包まれ、静かに眠ったままだ。


関越高速道ができる前の周辺の基地
昭和44年1月「地理歴史教育」を参考にしました

写真と地図
航空写真、昭和58年11月13日撮影。
「空から見た埼玉28市」日本交通公社出版局

米軍の最新型アンテナ
大和田通信基地
「武蔵の国にひくら」
いちい書房、1987年刊より
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