あなたへのメッセージ/コラム

あなたへのメッセージ

浜崎に生きる画家 池田 要氏
(聞き手・安斎 達雄)

 志木フォーシーズンズ(このなかにはマルイファミリーも入っている)の建物は、二階部分がテラスにつながり、駅方向(東)と市街地方向(北)に向かって広がっている。その市街地方向にテラスを歩く。すると通路の欄干(らんかん)部分が、モノトーンのガラスでつくられた志木の古今の風景画で飾られていて、どこか懐かしさを感じさせてくれる。その原画となる切り絵の制作者が、池田要氏である。

浜崎の東薬師堂

 池田氏は大正十四(一九二五)年一月に現在の朝霞市浜崎で生まれた。そこは現在お住まいの家である。そのお宅のすぐ前には「浜崎の東薬師堂」がある。同じ浜崎にある三光院の持堂で、墓地として使われているが、墓地ということばから呼び起こされる湿った感じはない。三光院の墓地を中心とした持堂は、ほかに「浜崎の観音堂」「浜崎の地蔵堂」がある。いずれも江戸時代の記録にあるもので、規模は小さくなったものの、それなりに周囲の風景に溶け込んでいる姿が、訪れるものに安心感をあたえてくれる。
 「浜崎の東薬師堂」のすぐ後ろにはJR武蔵野線が通り、その後ろには朝霞浄水場の給水塔がたっている。どこにでも見られる新旧文化の共存風景だが、「旧」もそれなりの存在感があるのが、浜崎という地であろうか。

黒目川の水浴び

 池田氏のお宅から南東の方向に下っていくと、黒目川に行き当たる。流域に緑を広げながら、緩やかに蛇行していて、春には桜堤としても知られる。周囲は見渡す限りの田と畑の田園風景だ。そこに健康増進センター「わくわくどーむ」や、総合福祉センター「はあとぴあ」などの新しい健康福祉施設がアクセントを添える。川の向こうには東洋大学も見える。
 黒目川の水は冷たいがきれいだったので、こどものころ、よく水遊びをしたという。浅いところでは手をついてバタ足をやり、少し深いところでは犬かきをやり、もっと深いところでは投げ込んだ石をもぐって取りっこしたという。
 浜崎には、もうひとつの川がある。志木の方から流れてくる新河岸川である。志木では、新河岸川で水浴びするこどもたちの写真がたくさん残っているが、浜崎ではどうだったのだろうか。「あんなところでは、泳ぎません」というのが池田氏の答えだった。黒目川は川底が砂利であるため水がきれいだったが、新河岸川は泥であるため水が汚かった。
 それに新河岸川にかかる「新盛橋」近くの上流にあった「浜崎河岸」は、東京品川のお台場の倉庫から肥料を運んできたところだったので、「お台場河岸」とも呼ばれていた。こどものころの体験によれば、東京方面から船で運ばれてきた下肥の入った桶が、新盛橋のたもとに並べられていた。そんなところでは、とてもではないが泳げたものではなかったという。

地里神社と稲荷様

 こどものころの夏祭りといえば、黒目川を見おろす小高い畑の中にある地里神社の祭りだ。この日は醤油樽でつくった樽みこしがでた。もちろん、こども専用で、大人のみこしはない。志木のおもちゃ屋で金紙・銀紙・モール・鈴などを買ってきて、毎年の例にならって飾りつけをした。鳥居の形をした作り物だけは保管して毎年使ったが、その他は毎年つくりかえた。みこしは農家の庭から庭へまわって幾らかのお金をもらい、集められたお金は、高等二年のリーダーが、長幼の序や功労に応じて配分した。
 冬の祭りといえば、初午の前夜の宵宮である。こどもたちが、家々から集めた丸太やむしろを使って稲荷様を包み込んだ形の小屋をつくり、一晩中この小屋にこもった。年番制の宿の家でつくった五目飯、集めたお金で買った水羊羹や甘酒がこどもたちのごちそうだった。しかし、若い衆や年寄りなどが面白半分に猥談を聞かせ、おかげで翌日こどもたちが学校で居眠りをしてしまうということで、こどもの初午は学校から禁止となった。
 地里神社も稲荷様(次郎左衛門稲荷といった)も、ひっそりとたたずんではいるが、今も地域に残されている。

浜崎の人と風景

 池田要氏は、昭和二十(一九四五)年九月に師範学校を卒業し、志木国民学校(戦時中小学校はこう呼ばれた)に奉職して以来、昭和五十八(一九八三)年三月に退職するまで新座市・朝霞市などを含めて三十八年の教職生活をおくり、うち十一年間を校長としてつとめられた。主として図工科を教えていたこともあり、その後も絵の勉強、さらには絵の指導・研究にあたられている。
 浜崎という地名は、その昔、南東の低地が入り江であったことに由来するというが、小高い台地から田畑を、川を、そして入り江を眺める茫洋としたおおらかさが、浜崎の風景と池田要氏を貫いているのかも知れない。 

浜崎の風景


要氏78歳・自画像

黒目川の岡橋からの眺め


東上線を遠望する、
左側は東洋大学校地


下流のわくわくどーむ


浜崎通りの東薬師堂、
浄水場・武蔵野線を背景として

この人
 柳沢吉保

 柳沢吉保(やなぎさわよしやす)は江戸時代元禄の世に五代徳川将軍の下で異例の出世を遂げた人物で、川越城主となり、大掛かりな三富新田の開拓を進めたことはよく知られている。
 この開発行為は、江戸期における農業の振興事業として、歴史に残る偉業であるが、特に雑木林の落葉を利用する循環型農業は、いまや世界的な注目を浴びている。

 開拓地は川越の南へ三里、上富(現三芳町)、中富、下富(現所沢市)に広がる東西33町、南北 町に及ぶ原野で、1300町歩(1300ヘクタール)に及ぶ広大な区域であった。
 それまでの三富の一帯は、山林を含む野原で、住民の多くは秣(まぐさ)場として秣や茅などを採取し、野銭、草銭という負担金を税としていたが、入会権が複雑に絡み合ったので、農民の間には利権争いが絶えなかった。
 開拓は、まず道路を縦横に開き、土地を区切り、農道と屋敷とを仕切り、三年を経て、元禄九年(1696)に完成、当時の検地帳によると、上富、中富、下富村を合わせて241戸もの農家が入植した。

 以上は郷土史への造詣が深く、特に山梨の郷土史のエキスパートとして知られる野澤公次郎氏が書かれた「柳沢吉保の実像」(みよしほたる文庫3、三芳町教育委員会発行)を参考にして記述した。

万治元年(1658)  江戸市ヶ谷に生まれる
延宝三年(1675)  18才 家督相続
 禄高 五三〇石
元禄元年(1688)  31才 諸侯に列し、若年寄上席となる  
 禄高 一二〇三〇石
元禄七年(1694)  37才 川越城主、侍従、老中格となる
 禄高 七二〇三〇石
元禄十一年(1698) 41才
 近衛少将、老中筆頭(大老格)
 禄高 九二〇三〇石
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