あなたへのメッセージ
宗岡に根を張る歌人
細田千虎氏
(聞き手・安斎 達雄)
志木市域の歴史をさぐってみても、武将とか武士の気配を感じさせるものはほとんどない。
しかし、上宗岡在住の歌人細田千虎(ちとら)氏が語る細田家の歴史のなかからは、 戦国末期の動乱にまきこまれた武将の姿が浮かんでくる。
その糸口となったのは、遠い日の氏の幼児体験である。
先祖は落ち武者?
氏は、五月の節句に鯉のぼりをあげてもらったことがなかった。言い伝えによれば、細田家の先祖は小田原の後北条氏の支配下にあって、柳瀬川沿岸の滝の城(所沢市大字城)を守っていた武将(家老)であった。しかし、天正十八(一五九〇)年豊臣秀吉方の軍勢に攻められ、ここ上宗岡に落ちのびてきたという。だから、鯉のぼりなどはあげず、ひっそりと生きなければならない、という先祖の生活規範が記憶され続けていたのであろうか。
また、正月には粳米(うるちまい)を粉にひいてこね上げた碁石形の「だんご雑煮」を食べた。これも落ち武者伝承からくるもので、息をころすようにして生きていたから餅をつくどころではなかった、ということであろう。現在の氏の家では普通の餅の雑煮も食べるが、昔をしのんで、だんご雑煮も食べているという。
落ち武者伝承は、それなりに歴史の真実の断面を伝えているに違いない。しかし、鎌倉街道が通り、その宿(しゅく)があった所に、落ち武者が逃げてくるのはおかしい。
また、大仙寺のお経や墓の位置を調べてみると、この辺りに住んでいたのは細田一族がもっとも古く、それは滝の城が落城した天正十八年より以前からのことであるという。
そこから判断すると、細田家は中世末期から上宗岡の地に勢力を張り、ここを根拠地として滝の城に仕えていたが、城が落ちたので先祖伝来の上宗岡の地で農民となったのではないか…と、氏は考えている。
新河岸川の思い出
こどものころの思い出といえば、新河岸川での水遊びだ。家のすぐ近くの乗越(のりこえ)河岸とよばれたところで、夏休みは水泳ばかりして過ごした。まだ河川改修前のことで、川は曲がりくねっていて、舟運が行われていた時代だから、川幅は今と変わらないが深さはもっとあった。深みに入ったら川底をけって水中にもぐればよいのだが、足で歩こうとしてアップアップしてしまう。足がつくかつかない深さの所で、溺れかかった経験は誰にでもある。
袋橋はまだなく、この乗越河岸には渡し舟が通っていて、「おけさ婆さん」とよばれる人が舟を操っていた。普段はよく喧嘩していた南畑鶴新田のこどもたちとも、その舟が通る川の中では仲良く遊んだ。
近くには柳瀬川もある。新河岸川の川底は泥であったのに対して、柳瀬川の川底は砂利だったから、水は柳瀬川の方がきれいだった。しかし、柳瀬川は、密生したアシなどが両側から空をおおうように伸びていて、こどもが遊べる所ではなかった。
学校は、宗岡に一つしかない宗岡小学校に通った。冬になると田んぼに氷がはり、それをバリバリ割りながら歩くのが楽しかった。宗岡は冬には土地が乾くところなので、霜柱が溶けて道がぐちゃぐちゃになることがなかった。
宗岡は昔は入間郡だったから、北足立郡だった志木(明治二十九年までは新座郡)のこどもたちとの交流はそれほどなかった。それより、同じ入間郡だった南畑、水谷、鶴瀬、三芳、大井、福岡などと連合運動会を開いたので、鶴瀬まで歩いて参加した。なぜかサツマイモの産地である三芳とか大井の子の方が体が大きく、いつも勝ちをしめた。
航空写真(昭和58年11月撮影/日本交通公社出版事業局)
佃堤のいま
千虎氏の絵
袋橋
緑肥・井戸・堤
氏は大正三(一九一四)年二月、細田本家の次男として上宗岡にうまれた。二十一歳のときに兵役の臨時召集をうけ、その後も二度の召集を受けて、中国戦線で餓死寸前の逃避行を敢行した体験を持つ。
除隊になった後しばらく東京に在住したが、終戦とともに現在の上宗岡の地にもどった。本家の次男であった氏は、その隣接地に分家し、以後、農民としての生活が始まる。
上宗岡には水田と畑の両方があった。畑の土は固く、なかなか掘れない。父親が考えて九月にレンゲソウの種をまき、生長したらそれを刈り取り、そのまま肥料とした。これを緑肥とよんだが、レンゲソウの緑肥は土をやわらかくして、耕しやすくしてくれた。畑では麦をつくった。
水田に使う水は井戸水だ。乗越河岸から氏の家までの井戸は、昼も夜も一メートルほどの高さまでの水を噴き上げていた。典型的な自噴井戸である。
荒川と新河岸川にはさまれた宗岡地域は、水害に悩まされた地域でもあった。しかし、氏のお宅付近は、なだらかに土地が高くなっているため、知っている限りでは、床まで浸水するようなことはなかった。
そういえば、細田家の近辺の家では、水害対策のため敷地内に土盛りをした水塚(みづか)がない。全般的には宗岡には今もけっこう残っているが、ここでは必要とされなかったのだろう。上宗岡では水塚のことを「じんよう」と呼んだが、その意味は不明だ。
近くには江戸時代につくられた佃堤(つくだづつみ)がある。洪水のさい南畑地区(富士見市)からの激流を宗岡地区(志木市)に入らないようにするための堤だ。これは南畑村に犠牲をしいることにもなるので、両村の紛争の種となっていた。
氏と同時代の洪水では、昭和十六(一九四一)年のものが最大であった。このとき濁流は佃堤をこえ、上宗岡に流れ込んだ。南畑側では多くの家が庇(ひさし)まで水をかぶり、上宗岡でも床上浸水の家があった。しかし高みにあった氏や近所の家は濁水が敷地を流れる程度ですんだという。
このころの氏は軍に召集されており、たまたま家に帰ってきて、この洪水に出あったが、これほど大規模なものであったと知ったのは、あとのことであった。
宗岡のうた
細田千虎氏は、短歌や書をよくし、また絵を描かれることでも知られている。詩や短歌の道に踏み込んだのは十七、八歳の頃からという。昭和三十九(一九六四)年には「志木短歌会」を結成し、以後その会長をつとめている。
水張田(みはりだ)に風の渡れば
日照雨(そばえ)ふるごと光つつ
さざなみのたつ
これは、氏が生まれそだった宗岡の水田風景をうたったものだ。見渡すかぎり田畑が広がっていた宗岡の里は、長い歴史をもつ先祖の地であり、また、氏自身が深く根を張る生活の地でもある。氏の心は、今も誇り高き宗岡の農民である。
佃堤(つくだづつみ)
宗岡村(現上・中・下宗岡)は、荒川・新河岸川に接しているため、昔から水害を被ることがたびたびありました。
江戸時代には、延長八六○三メートルに及ぶ村総囲堤を築き、村全体を堤で囲み洪水を防いでいました。
佃堤は、そのうちの一つで、上流の南畑村(現富士見市)方面から流下する水を防ぐ目的で、正保年中から寛文の初め(一六四四〜一六六二)頃に、当時この地を治めていた旗本岡部氏の家臣白井武左衛門によって築かれたものといわれています。
堤は、高さ平均一.二メートル、延長一二三八.八メートルあり、他の堤とは異なり八箇所の屈曲を持っていました。これについては、諸説がありますが屈曲をもうけることにより流下する水の勢いを分散させたものと考えられています。
昭和二十七年に行われた耕地整理などによって、その大部分が姿を消し、現存するのは約三○○メートルを残すのみであります。
平成三年三月三十日
志木市教育委員会