準備2号2面

新座市と志木市を繋いでいた荒地を緑野に変えた恵みの流れ。
「野火止用水」またの名を伊豆殿堀。

江戸時代のこと、徳川家康が江戸城に入ってから。
江戸の人口は急激に増加し、水が不足しました。承応二年(1653)幕府は多摩川から水を引くことを計画しました。
総奉行は老中松平伊豆守信綱、そして多摩郡羽村(現在東京都下羽村市)の名主、玉川庄右衛門・清右衛門兄弟がこれを請け負って工事が進められました。
しかし難工事となり、信綱は家臣の安松金右衛門に補佐を命じて工事を続行させ、承応三年(1654)に完成しました。
信綱はその功績により、将軍から乾燥した台地のため生活用水に困っていた領内の野火止に玉川上水からの分水を許され、承応四年(1655)野火止用水を開削しました。
工事の責任者は安松金右衛門、多摩郡小川村(東京都小平市)から堀りおこして野火止台地を貫き、新河岸川に至る全長25kmに及ぶ用水路で、水路は素堀りにより開削され、玉川用水は分水されて野火止の台地に引水されました。
工事開始は2月10日、その40日後の3月20日には完成したとされています。
用水の分水割合は、玉川上水7分・野火止用水 3分と言われ、主として飲料水や生活用水に使われてきました。
この野火止用水開削にもとづいて野火止の耕地を計画的な短冊型に区画し、信綱は農民を入植させて新しい村(野火止、西堀、菅沢、北野)をつくり、松平家の一門や家臣まで開発に参加させるという計画的な新田開発を行いました。
その後、寛文二年(1662)には引又宿(現在の志木市)を経て、新河岸川に懸樋をかけ、用水が対岸の宗岡(現在志木市)に引かれまた、
分水が館村(現在の志木市)や宮戸新田(現在の朝霞市)の水田耕作にも使用されました。
このようにして野火止用水は飲料水だけでなく、後には田の用水としても利用されました。
水を得た人々はこの用水に感謝し、「伊豆殿堀」 と呼びました。
以来300年の長きに渡って、清冽な流れが野火止台地を潤してきました。
しかし昭和二十四年(1949) 頃から排水が用水に入って汚染し始め、飲料水や生活用水として利用することはできなくなりました。
特に昭和三十八年(1963)頃から宅地化が進行して用水への排水がさかんに行われるようになり、また昭和三十九年(1964)には関東地方が干ばつに見舞われ、 東京都が水不足となり野火止用水への分水は中止されました。
その後、かけがえのない野火止用水を復活するため埼玉県と新座市は「野火止用水復原対策基本計画」を策定、用水路のしゅんせつと氾濫防止の対策を実施して、文化財の保存・整備につとめ、昭和六十二年(1987)に野火止用水の清流を復活させました。
整備の事業が完了したのち新座市は「野火止用水のあるまちづくり」という基本的な考え方で、 史跡の保全・活用を推進しています。

新座市『文化財散策ガイド2』・「野火止用水をあるく」のほか、神山健吉氏、中村敞一郎氏の「伊豆殿堀フォーラム」の講演資料などを参考にさせて頂きました。

高等小学讀本(巻一) 〈大正十五年〉
文部省 国語讀本『野火止用水』


平林寺の春
東京の西北数里、野火止という所がある。今は埼玉県北足立郡大和田町に属しているが、見渡す限り、うち続く畑の間には森あり、丘あり、家あり、流れあり、春は菜の花、麦の緑、秋はすすきの波、雑木の紅葉、武蔵野の面影が今に残って見るからに野趣に満ちた眺めである。
昔この付近一帯は、彼の知恵伊豆といわれた松平信綱の領地で、その菩提寺平林寺もこの野火止にある。平林寺の門をくぐって薄暗いばかりに茂った、 楓の下を進むこと約二町、本堂について右折すれぱ、杉や檜の生い茂っている林の奥に、信綱の霊は静かに眠っている。敷石の苔を踏んで、ここに詣でる者は、あたりの静けさを破って、玉の如き水が勢いよく流れているのを見るであろう。 有名な野火止の用水とは、即ちこれで、この水を引くについては、おもしろい話が、今に伝えられている。
元来野火止一帯は、土地高く、水利に欠け、土もやせ、見るからに貧しい村であった。信綱が川越城主としてこの地を領していた時、代官安松金右衛門は、新たに堀を掘って、玉川の水を引けば、必ず田畑が出来ると申し出た。
そこで信綱がその費用の見積りを尋ねると、三千両あればよいという。当時の三千両は非常な大金であるが、信綱はこのために、後々の人まで利益をうける事が出来るならば、幸いであると、直ちに堀を掘る事を安松に命じた。安松は命を奉じて数百人の人夫を督し、いよいよ工事に着手した。こうして今の中央線立川駅の北方一里ばかりの所から、この野火止を過ぎ、志木町の新河岸川まで、六里の間に堀を通じて玉川の水を引くことにした。
工事はやがて見事に落成したが、しかし意外にも一滴の水も流れて来ない。信綱はこれを見て、安松をなじると、安松はとかく明年までの猶予を願い出たが、翌年になっても水が、やはり来ない。ここに至って、信綱は安松が地勢の高低を考えずに、工事を進めたものとして、その手落ちを責めたが、安松は尚自分を信じて疑わない。元来この付近は、土地が乾き、風が激しいために、これまで非常に土ぼこりが多く、客のある場合には、必ず座敷を掃いて入れなければならなかった。然るに今年は、そんな事が全くない。のみならず、野菜の出来のよいのも、例年と異なっている。これは水分が地をうるおしているためで、確かにかの堀のお陰に違いない。何とぞ更に一年の猶予をと願い出た。
然るに翌年の夏、一夜大雨 が降ると、奔流が水音高く進み来て、たちまち六里の堀にみなぎった。信綱は始めて安松が自ら信じる事の強いのに感歎し、かつ厚くその功を賞 したという。
草ひいで木茂り見渡す限り豊かな、田畑の間を過ぎて、平林寺に詣でる者は、ただに春の花や秋の紅業を賞するばかりでなく、今なお流れてつきぬ用水に対して、当年の苦心をしのび、功績のあった人々に深い感謝を捧げねばならぬ。

注…この元は、新井白石の神書(随筆)である。
新井白石(一六五七〜一七二五)は、江戸時代中期の儒学者で六代家宜・七代家継将軍のとき側用人間部詮房とともに政治に力をつくした。
漢字仮名使い、句読点の一部は現代で使用されているものに置き換えました。

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