歴史を紐解く

上峰(うえみね)の康申塔
国際興業バス「与野本町〜志木駅東口」線が志木に向かって大宮バイパスを越えると間もなく、 バス停「陣屋」(旧上峰)の脇に 「これより加う志うみち」上峰村と刻んだ庚申塔が建てられていた。
道路拡幅のため撤去され、現在では近くの路地に移されている。
宝永八年(1711)と刻まれている。

脇往還「奥州街道」をゆく -神山 健吉-

江戸時代を通じて奥州街道という名の脇往還が志木、新座の両市域を貫通していた。
甲州街道の日野宿(現日野市)から小川新田(現小平市)・清戸(現清瀬市)・野火止(新座市)を経て、志木市域の中央部を通り、与野・大宮(以上、現さいたま市)・原市(現上尾市)を経て、岩槻で日光御成道に合流するこの往還は、奥州方面に向かう道であることころから奥州街道と呼ばれていたのだが、コースを反対方向に取れば甲州に達するということで、甲州道と呼ばれることもあったらしい。旧奥州街道が大宮バイパスと交差する寸前の旧「上峰(うえみね)」のバス停脇に佇む小さい庚申塔(こうしんとう/写真1)に「加(か)う志(し)うみち」と刻まれていることがなによりの証拠だ。
なお、奥州街道といっても江戸千住から津軽三厩(つがるみんまや)に至る五街道の一つの奥州街道(正式名は奥州道中)とはまったく別個のもので、大名では高崎藩主・長瀞藩主が例外的に利用する程度なので、重要性から言っても千住を起点とする幹線道路の奥州街道の比ではない。

いつ頃、奥州街道は成立したか?

奥州街道がいつ頃成立したかははっきりしないが、元になるようなものは、中世後期に起源したように思われる。江戸時代に奥州街道沿いに位置していた中ノ氷川神社(志木市中宗岡)が永享年間(一四二九〜四一)に現在の場所に創建されていることから、この頃すでに鎌倉街道(注)は羽根倉の渡しの手前で南下する支道を分岐させるようになっていたものと私は推測する。それが江戸時代に入ってからメインストリートとしての奥州街道になったのではないかと思われる。
中世には府中が名目的とはいえまだ武蔵国国府としての役割を担っていたので、府中へ通じる鎌倉街道はそれなりに重要な意味を持っていたが、江戸に幕府が開かれて政治の中心地となれば、古代的な国府が意味を成さなくなるということで、国府の府中に通じる鎌倉街道は廃れ、部分的にかつての鎌倉街道の一部を利用した形で、五街道のうちの甲州街道と中山道、日光御成道とを結ぶバイパスが成立したように思われる。特に与野と羽根倉との間はかつての鎌倉街道のコースをほとんどそのまま踏襲しているのだ。

奥州街道にも宿駅があった

脇往還ではあっても、いちおう街道というからには、要所要所に宿駅が置かれて、旅人のための人足や馬を各宿駅は常備しておかなければならなかった。
当時は、馬に乗ったり、重い荷物を人足に持たせて旅をする人達もいた。その場合、それぞれの宿駅に常備されている馬や人足を使って次の宿駅まで行き、そこで乗り換えたものだ。今や外国の辞書にも『EKIDEN』として載るくらいに、長い距離をリレーで競走する駅伝は海外にまで普及するようになったが、これは江戸時代以前に旅人が宿駅から次の宿駅までリレー形式で人馬を利用したことの名残である。
宿駅に常備されていた人馬の数は東海道で百人百疋(ひき)、中山道では五十人五十疋、そのほかの街道でも二十五人二十五疋であるにもかかわらず、わが奥州街道では二人二疋と極端に少ない。これは幹線道路に比べ人馬を必要とする人物の通行が非常に稀であったために、多くの人馬を常備する必要がなかったからだ。でも、例外的に臨時に多くの人馬を必要とする時は、助郷(すけごう)といって近隣の農村から応援のための人馬の提供を受けることになる。引又宿の場合、助郷を務めてくれる村々は、舘(たて)村・中野村・宗岡村(以上、現志木市)・大和田町(現新座市)・竹間沢村(現三芳町)・針ヶ村(現富士見市)の六か町村であった。
また、幹線道路である東海道や中山道はもちろんのこと、川越街道ですら通行する大名を宿泊させるための本陣や脇本陣が宿駅に設けられていたが、奥州街道の場合は、引又宿や与野宿でさえ、こうした高貴な人物のための特別の宿泊施設が置かれることはなかった。

引又宿からの賃銭はどのくらいだったか

公用の旅行者は御定賃銭(おさだめちんせん)という公定運賃を受けられるが、一般の私的旅行者の場合は、相対賃銭(あいたいちんせん)で人馬を雇わざるを得ず、通常は御定賃銭の倍額を支払わなくてはならない。天保十四年(一八四三)の御定賃銭を次に紹介しよう。
引又宿から清戸村へ (二里余) 本馬(ほんま)八十文  軽尻(かるじり)五十二文 人足四十文
引又宿から与野町へ (二里十町) 本馬九十文 軽尻六十七文人足四十五文
※本馬は荷物一駄四十貫を積んだ馬一疋の賃銭  軽尻は荷物をつけず、人だけが乗る馬一疋の賃銭
人足は五貫目以内の荷物を持った人足一人の賃銭  ちなみに、天保年間頃は、うどん・そばが十六文、銭湯が十文だった。

どんな人たちがこの街道を利用したか

先にも述べたようにこの街道を利用した大名は非常に限られていて、高崎藩主松平右京亮(うきょうのすけ)と長瀞(現在の山形県東根市)藩主米津(よねきつ)出羽守がそれぞれの菩提寺平林寺(新座市)と米津寺(べいしんじ/東久留米市)に墓参するときぐらいだったが、そのほか公的に利用する者としては、幕府巡見役(じゅんけんやく)、尾張藩鷹場役人、日光東照宮勤番(きんばん)のために往復する八王子千人同心(せんにんどうしん)、武州(ぶしゅう)近辺の代官・旗本といった程度で、あとは大山・富士山・武州御岳山(ぶしゅうみたけさん)に登拝する大山講・富士講・武州御岳講の講員や各種商人といった庶民に利用されることが圧倒的に多い街道であった。中でも、この街道は岩槻・大宮・与野・志木・府中・木曽(多摩市)を経て大山に達する大山街道とかなりの部分が重複することもあって、大山参りの人々に利用されることが多かったようだ。明治十年頃に結成された大山教慎講(おおやまきょうしんこう)はこの街道沿いの大宮・与野・志木・木曽にそれぞれ一軒ずつの定宿を設けている。残念ながら、教慎講によって定宿に指定された志木の旅籠の名前は分かっていない。

宗岡の一里塚
志木市役所前から秋ヶ瀬橋に向かう浦和行きのバスが大きくカーブする直前、
宗岡小学校の裏手に通ずる道路との分岐点にある。
志木市史跡「一里塚」の標識が立っている。

桜株(さくらっかぶ)
志木駅より立教高校前を通る浦和・東村山線を清瀬に向かい、
新座市あたご2丁目、桜株通りの角に所在。
ファストフード店の駐車場の辺りが一里塚の跡という

この街道にも一里塚が設けられていた

徳川家康は慶長九年(一六〇四)に交通上の利便を図るために、東海道・中山道などの五街道に一里塚を築かせたが、その後順次そのほかの街道にも設けるようになったようだ。 奥州街道に一里塚が築造されるようになった時期ははっきりしていないが、江戸初期であることは間違いなさそうだ。
志木市内では宗岡小学校の手前の薬局の横に一里塚の跡がある(写真2)。文化・文政年間(一八〇四〜三〇)に編集された『新編武蔵国風土記稿』に、「ここに少しうずたかき塚あり。上に榎(えのき)一株立てり」と記されているのがこれだ。何年か前までは榎の老木が枝を張っていたが、ある風の強い日に倒れてしまったので、今では切り株だけが昔をしのぶよすがとなっている。
一里塚に榎の植えられることが多いのは、家康に松を植えたいと家臣が申し上げたところ、余の木にせよと命ぜられたのを聞き違えたからとも言われている。
一里塚は街道の両側に対をなして置かれるのが普通だ。宗岡の一里塚から旧奥州街道を隔てた内田修一家は家号を「一里塚」というが、これはこのお宅の場所にもう一つの塚が築かれていたことを示す証左といえよう。
宗岡の一里塚よりも与野寄りには、現在の埼玉大学の正門からやや羽根倉橋寄りの場所に一里塚があったというが、その場所が埼玉大学の構内に取り込まれてしまった際に取り壊されたという。
清瀬寄りでは、新座市と清瀬市の境に桜株(さくらっかぶ)という場所があって、ここが一里塚跡だと伝えられているが、もしそこがそうだとすると、宗岡の一里塚からは二里ほどの距離がある。当然、両者の中間点にもう一ヶ所の一里塚があったはずだ。その場所は立教高校付近と思われるが、何か痕跡めいたものが残されていないだろうか、探求する必要があろう。

注・鎌倉街道 一一九二年、鎌倉に幕府が開かれて以後、武蔵・相模の両国に数多く設けられた鎌倉に通じる道の総称。当時は鎌倉路(道とも)と呼んだ。
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