
川越街道をゆく膝折宿
大正・昭和・平成と時代とともに変遷を遂げた膝折をつぶさに見てきた著者の文章から、
往時の川越街道の様子を偲んでください。
(原文は長文のため、中略もたびたびありますが、ご了承ください)

(大正初期の川越街道)
越街道点描
その一つに川越街道がある。江戸時代、幕府直轄のいわゆる五街道に準じて、脇往還と称された。
川越街道は、板橋〜川越間をそう呼ばれていて、往時から盛んに利用されているが、 川越から北に延びて、中山道熊谷宿に接している。
沿道には藤久保(三芳町)の松並木を始め、杉並木・欅並木もあり、 膝折宿の各家の門前などには見事な姿の赤松も散見されたが、 これらの松も藤久保の松並木も、戦中・戦後にかけ松喰い虫や車の排気ガス等の被害で、 いまは一本残らず枯れてしまい、往時の美しい姿が見られないのはまことに残念である。
わが家の街道べりには紅白の花を咲かせた源平桃があって、 花の頃には道行く人々も振り返って見たとは、亡父の話であったが、 私が子供の頃には、その朽ちた幹の一部を留めていたに過ぎなかった。
膝折宿の川越街道の両側には、 幅一メートル足らずの小川が流れていて玉石などで護岸されていて、 人家の前のみ御影石や板などの橋をかけていた。
小川の水は黒目川からのものではなく、 大山(警察署西方の台地)からの湧水であるからきれいに澄んでいて、 洗い物などにも利用されていた。
堰止めて巧みに作った水車をそれに仕掛け、道ゆく人々を楽しませていた所もあった。
道路はもちろん砂利道であったが、江戸時代はどうであったか知らない。
川越あたりからたまに貨物自動車や、一時間に一本の乗合自動車(バス)が通ったほかは、 馬や牛に牽かせた運送車のガタゴトという音で夜が明けたり、 野菜などを積んだ大八車もよく通った。
鶏や犬も遊んでいたし、子供らの独楽回しや竹馬の遊び場でもあった。
江戸時代膝折村の民家は百軒位。
万治三(一六六〇)年の検地では屋敷三九軒とある。(写真は万治3年検地帳)>
日常庶民のほかにどんな人々がこの道を通ったろうか。
小栗判官・鬼鹿毛や、御子上典膳・鬼眼、
太田道灌(文明十・一四七八年、豊島氏との戦いで、膝折宿に布陣したという)のことなどはさておき、
遠い昔、禅僧・万里集九は長享二(一四八八)年、白子(和光市)に泊まり、
川越へ行ったが、当然膝折宿も通ったろう。 紀行詩文集『梅花無尽蔵』を書いている。
文明十八(一四八六)年から一年の旅で、道興准后は膝折で歌を詠み『廻国雑記』に載せている。
天正十八(一五九〇)年以降、後北条氏の人馬や軍用物資も通ったかもしれない。
(双六画面<朝霞市博物館資料>)
元和九(一六二三)年〜慶安四(一六五一)年に三代将軍として在任した家光は、
川越仙波の東照宮へ参詣しており、これも当然膝折を通ったと思う。
鷹狩を好み、士気を鼓舞した家康やその影響を受けた秀忠・家光は、
当地方の御鷹場へもやってきたことであろう。
小藩ながら江戸防衛の要衝として重要視された川越藩には、
酒井・堀田・松平・柳沢・秋元などの譜代大名が城主にされ、
移封もしばしば行われたが、これらの大名の参勤交代その他での往来、
その家臣達の往来や上使らの通行もあったことだろう。
亡父の話では、川越城主は野火止までは領地であるからそれらしく通り、
坂を下って天領の膝折宿は粛々と通過したと見たようなことを言っていた。
長い間に、脇往還を通った大名は川越城主だけではなかったようだ。
北の方の小藩主も通ったようだ。
大身の大名と中山道ですれ違うことが予想された場合、
礼を致す煩わしさを避けて、脇街道を行くといったことがあったようだ。
ただ、川越街道は道中の短い脇往還のことであり、東海道や中山道の名立たる宿場に比べれば、
白子宿も膝折宿も、大和田、大井宿等も、その規模は小さいものであったろう。


(左右とも:江戸時代の膝折宿模型朝霞市博物館資料)


膝折の家並
いくつ部屋があったであろう、間口の広い草葺きの大きな平屋で、 「膝折に過ぎたるものが二つある。なか屋の鴨居に○○屋の娘」と明治の人達が言っていた、 並外れの長い鴨居があったらしい。この家は昭和の戦後に取り壊された。
さらに少し下の方(膝折宿では江戸の方向を「上(カミ)」と呼び、川越方向を「下(シモ)」と呼ぶ。
天領であったためであろう)へ行くと、「かど屋」という旅籠があった。
上の坂の途中にあった「元禄地蔵」(一乗院に収む)や中宿の「火の見櫓」(写真参照)などは、 膝折宿の象徴であったといえよう。
かせぎ(稼)坂から大橋の先の榎の木までの膝折宿には、
馬を備えた家(馬方)、米屋、酒屋、豆腐屋、魚屋、八百屋、菓子屋、甘酒屋、
呉服・小間物屋(よろず屋)、傘職、屋根(草葺)屋、大工、左官、
鍛冶屋(農具・蹄鉄・たが・自在鈎などの製造、修理)、
髪結床(「かみどこ」とも言い、江戸時代には鬢(びん)・月代を剃ったり、
丁髷を結ったりした)等の家(いずれも草葺)があった。
これらを一望すれば宿場らしさが想像できよう。
明治・大正期から昭和初期頃は、
よかよか飴・飴細工・ラオ屋・万金丹売り・金魚屋・風鈴屋・一五銭屋等いろいろな物売り、紙芝居、虚無僧、正月には猿回しや獅子舞い、風折烏帽子をかむり、おどけた才蔵を伴った三河万歳もやってきた。
膝折は三方が坂で、これも昔は今よりももっと急であったらしい。
昔からいわれている坂の名に、元坂、稼ぎ坂、卵塔坂などがある。
長山の坂は地形の変化などでいわれなくなり、
いつの間にかヨリヤ(撚り屋又は縒り屋)の坂と呼ばれるようになった。
足袋屋の坂や籠屋の坂は、坂の途中に足袋屋や籠屋があったことから、
次の合同の坂と同様、巷間いつの間にやら称されるようになった。
合同の坂は、昭和五、六年頃であったか、私が第一小学校へ通っている頃、源四郎食堂さんの所から初雁木材さんの所へ一直線の坂道がトロッコ工事で開通したので、後にその坂の上に合同貨物自動車会社(後に武蔵貨物と改名)が出来たことから、地域の一部の人達からそのように呼ばれたものである。
いまはその会社はないが、それでも合同の坂といっている人が多い。
宿の中ほどに、朝霞駅へ通じる大通りがあるが、これは鉄道が敷かれ、膝折駅(のちに朝霞駅)ができた頃に開かれた道で、当時「停車場新道」と呼ばれ、今でも地元ではその辺りの家を「新道の何々」と呼んだりする。
膝折の鎮守の杜(産土神)の氷川神社は、川越街道から約四〇〇メートルほど南へ行ったところの、
小字「蛇久保(蛇窪)」一二四九番地等に位置する。
鳥居の前の道路を境にして小字「子ノ神」に接していて、一般に「子ノ神の氷川神社」といわれている。
神社境内の滝壷は、明治四十二年七月に大改築されたが、池と共に当神社で今最も昔の面影を残している。
往時、滔々と流れ落ちていた滝も今は水量が減り、辛うじて姿をとどめている。
かつて陸軍予科士官学校が移転してきて、 蛇久保の大半もその演習場用地にされたが、
第二次拡張で神社境内との境界に接し、
山林は根こそぎ伐採され野っ原と化したため、神社の池の湧水を損ねたと思う。
いまは自衛隊の演習場となっているが、神社の池の上方台地の或る範囲に、
常緑樹等の植樹を施さないと、何年か後には池の水は枯渇し、滝は姿を消してしまうだろう。
せめてその辺りに樹木があれば、真夏の演習時の憩いにも役立つであろう。