田子山富士が志木市の民俗文化財に指定される

 志木市本町二丁目敷島神社の一帯は「田子山(たごやま)」と呼ばれていた。境内の北側に、明治二年十月から二年八ヶ月の歳月をかけて完成させた富士塚がある。高さ八.五m、円周一二五.三m、斜度三十九度の築山は「田子山富士」と呼ばれている。
 この場所にあった小山の上に土を盛り、富士山を模して築かれたものである。
 いまも残る多くの石造には、県内はじめ、都内を含めて、二千人以上の寄進者の名前が留められている。当時の引又宿(現在の志木市本町)で醤油醸造業を営んでいた高須庄吉が発起人となり、繁栄していた引又河岸の舟運関係者、近隣の有力者のほか、寄進者として、歌舞伎役者の岩井半四郎、尾上菊五郎も名を連ねている。築造の規模の大きさは、他の富士塚と比較しても並外れていて、当時の引又宿の経済力と富士山信仰への思いを伺い知ることができる。


田子山富士

 田子山富士の場所には、もともと古くから小山があって、古墳ではないかとの説もあった。その背後は「富士下」と呼ばれ、断崖を形成していた。斜面林からは清水が湧き、新河岸川につづく湿地帯で、かつては海の浅瀬と丘陵が接するところとされ、動物、植物の天然の宝庫であった。
 いま田子山富士に登ることは禁止されているが、頂上からは、新河岸川を越えて、さいたま市一帯が遠望でき、山の裏手からは同市に林立する高層ビルが遠望される。
 田子山富士の直下には、福祉のためのケアハウスが建設されたが、それにつながる一帯は、志木市が地主から借用、管理する「親水公園」ができた。ただし、本紙七号で報じられたように、この公園には、人工的な改変がつぎつぎに加えられ、生態系の危機が心配されている。

 資料:「田子山富士」上、下二巻、文化財調査報告書s十二、志木市教育委員会、本紙第三号三面に池田要氏の切り絵が掲載されている。


■正面


■田子山富士の裏手につづく小道は、静かな散歩道


■富士のすそ野にあたる裏手の一角に「御胎内」と呼ばれる洞穴がつくられている。
信仰に基くもので、宗岡の有志が建てた石碑にそのいわれが記されている。

 

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